いつか、飛ぼうとしていた空があった。
見えなくて、理想だけで生きていたような空があった。
私は、そんな空が大好きで、いつもベッドの上から眺めてた。
もしも行くことが出来るのなら、あの空に行きたいなって。
もうすぐ行く所は、あそこがいいなって、そう思ってたんだ。

+++ Your rain +++

「カーテン、閉めますか?」
「ん、そのままにしておいて下さい」

最後からの二週間前。
もうすぐこの部屋を後にする私は、あの空を心に刻み付けようと、時間の許す限りベッドに座り、
少し開けた窓からの風を感じながらただ流れ行く雲を見つめていた。
晴れた日も、曇りの日も。あの空が好きだから。

「今日は、何だか雨が降りそうですね」

小さな頃から私を見ていてくれた人が、ベッドに座って私の頭を撫でてくれた。
私もその人も、もう20年くらいの付き合い。
お互いにフケたねーなんて笑いながら話せるのももうちょっと。
知ってるけど、そんなことを口に出すこともなく、私達は同じように時間を過ごす。

「じゃぁ何かあったら呼んで下さいね」

同じ時刻にやってきて、同じ時刻に去っていく。
当たり前のようなことが、最近になって嬉しく思えるんだ。
随分昔にしまいこんだ鏡を見たら、きっと私はいい顔をして笑っていると思う。
きっと、もう見ることなんてないんだろうけど。

「雨、降らないかなー」

口に出してみた言葉だけど、この風とこの空じゃ、もうすぐ雨が降り出すだろうってことぐらい分かってる。
だけど口に出して言ってみたかった。
雨の日だけに会えるあの人に会いたいから。

胸に抱えた枕を置いて、目を閉じる。
風の匂いを嗅いで、会えるまでの時間を指折り数える。
ドキドキするのは良いことじゃないけど、だけどもこんな風に誰かを想ってドキドキするのなら、
きっと私の心臓も怒ったりはしないだろう。
決まっている時間に見える終わりよりも早く終わる事を、怒ったりはしないだろう。

いつも唱える言葉を呪文のように呟いて、それからひたすら外を眺める。
早く雨が降らないかなー、早く会いにこないかなーって。
あの高い壁を乗り越えて、あの高い木をよじ登って、あの空を背中に背負って、何度も来てくれるあの人に、早く会いたいなーって。

そしてそんな思いはあっという間にカタチになる。
おどけた風に笑ってどこからともなく現れて、器用に窓を足で開けて窓枠に腰を下ろす。
最初の頃、私は落ちちゃうんじゃないかって、ずっとハラハラしてた。
今じゃ冗談のように『寿命が縮まっちゃったよ』なんて言えるけど、あの頃は、そんな事も言えなかったなぁ。
貴方は何もかも知ってたみたいだけど、何も言ってこなかったから。
だから私ね、ずっと隠してたんだよ。自分のこと。
フフッ可愛いでしょ。あ、ちょっと、今キショイとか思ったでしょ。

私は膨れながらも、少しでもあなたに近付きたくて、よいしょッと体を移動させて、窓枠に座る貴方の横の窓に後頭部をこつンと当てた。


いつもは濡れている服が、今日は珍しく濡れてない。
雨の日にだけ現れる貴方は、自分のことを喋ろうとしないから、私は何も貴方の事を知らない。
分かってるのは、貴方が不思議な人で、雨の日だけしか現れなくて、いつも窓枠に座るだけで部屋の中には
入ってこないってことだけ。
どこから来て、どうやってここまで辿り着いて、どうして私の事を知ってるかなんて、そんなこと分からない。
だけどそれでもいい。
知らなくたって、私達には関係ないから。
でもね、もうすぐお別れしなきゃいけないから、どうしても一つだけ訊きたいことがあるんだ。

「どうして、雨の日だけなの?」

晴れの日とか、曇りの日とか、どうして会いに来てくれないの?
忙しい?それとも、何か色々な用事があるの?

私の質問に、貴方は曖昧に笑った。
いつもと違って、ちょっと疲れたような表情。
それが引っ掛かったけど、でも、それには触れないでいた方がいいみたい。
そう横顔が教えてくれた。

答えの代わりに貴方は鼻歌を唄い出す。
心地よいメロディーと心地よい声。
縮んだ寿命がそれでまた伸びていくみたいに、私の心臓が綺麗に波打つ。
それからしばらくして雨が降り出した。
貴方の唄い方にあわせるように、空からは雨が降ってくる。
それはまるで魔法のようで、私はただうっとりと、雨とあなたの鼻歌に耳を傾けていた。


雨が上がりそうになると、貴方はいつも同じように手を振って去る。
私がお別れの挨拶をする前に、窓枠からサッと消えて、文字通り消えてしまう。

雨の日だけに会える貴方に、私が恋をしてるなんて言ったら、貴方はどうしますか?
私が見つめるのはほとんど背中ばかり。
話す言葉も少ないし、触れあうこともないけれど、だけども私の中で貴方が溢れてる。
これってさ、多分、そうだよね。
外に出たこないから、恋なんてしたことないから、ちゃんと分からないけど、きっと、これがそうなんだよね。

顔を上げても、答えてくれる人はそこにはいない。
でも、きっとね、そうだと思う。

そして、言葉には出してないけど、きっと貴方は気づいていると思う。
分かるんだ、そういうの。感じるの。
繋がってるんだなぁって。

もう一度空を見上げたら、空からは光りが差し込んできていた。
通り雨が過ぎた後、外から貴方と同じ雨の匂いが部屋に入ってきた。
その匂いだけで、私の心は満たされて、そのまま目を閉じて深い眠りに落ちることが出来た。

 

この日以来、もう10日も雨は降らなかった。

 

 

***

心のカレンダーにつけた赤丸印。
それがもうすぐそこまで迫っていた。

優しく頭を撫でてもらえるのも、もう後ちょっとだね。
そんな事を言ったら、彼女は顔を歪ませて、いつもとは違って私の頭を抱き締めてくれた。
そんな顔しないで。私は、生まれた時からこうなること、決まってたし、知ってたんだから。
時間も沢山あったし、今も凄い幸せなんだから。
それに、ほら、まだ今日入れたら4日も一緒にいれるんだからさ。
ね、だから、もっと笑って。
そう言っていつもとは逆に彼女の頭を抱き締めたら、彼女は泣き笑いの顔で私の髪を撫でてくれた。
ありがとう、そうしてもらうのが一番好きなんだ。

いつもと同じように私の部屋を去っていく彼女の姿にこっそりとお礼を言って、久しぶりに雨の降りそうな
空のことを、目を細めながら見つめた。

それから数時間後、何処かで雷が聞こえた。
あなたはいつもみたいにびしょ濡れになってやってきて、それから窓枠に座った。

いつも言葉は少ないけれど、今日はいつもに増して言葉が少ない。
だけど、それがすごく落ち着いて、凄く、幸せだなって感じてた。
今日はなかなか雨が上がりそうもないから、この間よりも長く一緒にいられるね。
心の中で呟いたら、貴方が微かに頷いたように見えた。

止みそうにない雨の音を聞きながら、私はそっと貴方の手の横に自分の手を置く。
貴方は微かに微笑んで、いつもみたいに鼻歌を唄う。
時間が経てば経つ程に雨は弱くなっていく。
貴方はいつものように去ろうとした。
いつもと同じを望んでいた私なのに、だけど私は、貴方のことを呼び止めた。

あのね、もうお別れなの。
もし後3日の間に雨が降らなかったら、貴方とはもうずっと会えないから。
だからね、言っておこうと思ったの。
今日雨が降って嬉しかった。貴方に会えてよかった。
沢山、ありがとうを貰ったから、だからね、お礼を言いたかったの。

 

ありがとう

 

貴方は初めて振り返った。
そして、私の方を見た。
一瞬しか見れなかった顔は、想像以上に美しくて、想像以上に儚い感じだった。

ジッと私を見つめる瞳の中に映る自分の姿を見て、自分が貴方の中にいるみたいな錯角に陥った。
このまま、吸い込まれてしまいたいって、瞬時にそう思った。

だけどそれは出来ないって分かっていて、私はここから逃げることも出来ず、逃げる気持ちすらない。
だからかな、体はここに置いていって、心だけは貴方の所に行きたいって、一瞬でも思っちゃったのかな。
お別れはね、最初からするつもりなんてなかったんだ。
彼女にも、貴方にも。
だからありがとうも、さよならも、ごめんなさいも言うつもりなかったの。
だけど、今日貴方に会ったら、ありがとうって言いたくなったんだ。

ねぇ、そんな悲しそうな顔しないで。
貴方がそんな顔する理由なんてないじゃない。
それにね、私ね、生まれた時から運命は決まってたけど、だけど生まれてきた良かったって思ってるの。
だってさ、生まれてすぐに私には私の生きる意味があったんだもん。
私は、この為に生まれてきたんだんって。小さい頃からそう思うのは、不思議とイヤじゃなくて、
何だか嬉しかったの。
あぁ、私は誰かの為にこうやって生きてけるんだなーって。
だからね、ちっとも悲しくもないし、寂しくもないの。

だけどね、だけど…ね。
貴方に会ってから、貴方とのお別れがハッキリと見えはじめてから、私の中でね、ちょっとだけね、違うよ道が見えちゃったの。
それがね、嬉しかったの。
ずっと一本しかなかった道が一瞬でも見えたことが、本当に嬉しかったの。
だから、ありがとうを言いたくて、言いたくて、言っちゃったの。

雨はもう上がりそうだった。
雨が弱まるにつれ、私の瞼も重くなってくる。
眠ったら、もうお別れかもしれないけど、それでもこんな風なお別れだったらいいかなって思えた。
ちゃんと貴方の顔も見れたし、伝えたかった言葉も伝えれたから。

ねぇ、最後の日は、どんな天気がいいかなぁ。
ずっと見てた理想の空?だったら晴れじゃなきゃいけないよね。
でも、そうしたらあなたに会えないのか。
んー困るよね。どうしよう。
ねぇ、貴方ならどっちがいい?
ねぇ私ならどっちがいいかな。

瞼を閉じながら、私は幸せに包まれて眠りに落ちた。

あのね、今なら思うの、私、あの空に行けなくてもいいやって。

 

 

***

沢山ありがとうを言った。
さよならは、一度も言わなかった。
私は皆に会いに行くことは出来ないかもしれないけど、多分連れてってもらえるから。
それか、ほら、私じゃなくなっちゃっても、会いにくることは出来るから。

苦しくもなく、辛くもないままに終わった最後の日。
皆、私としての人生で唯一の我が侭を訊いてくれてありがとう。
希望通りの場所で、最期を迎えさせてくれてありがとう。
もう開かない瞼では何も見えなかったけど、皆の手の暖かさとか、優しさは感じれたよ。
私、愛されてるなぁって感じれたよ。
だから皆泣かないで。

私はこれから私じゃなくなるだけで、心はもう行き先を決めてるから。
ほら、すぐそこまで迎えに来てくれてるから。

 

 

笑ってみた。
そしたら笑ってくれた。

 

 

初めて触れた手は、想像していた通りで、それだけで、嬉しかった。

また私は会いにくるよ。
一緒に、皆の所へ。
だからたまには空を見ていて。
きっとね、背中を向けながら、窓枠で微笑んでいると思うから。

 

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