美貴は、一体どうしてここにいるんだろう。
こんな事を思うのは最初の数分だけ。
今日も、美貴は堕ちていく。
「…早く」
コクリと鳴った喉の奥を、知らない液体が通っていった感じだった。
この液体の事を、きっと美貴は知っている。

*** other time ***

美貴は美貴。
それ以外の何ものでもない。
ただの美貴だ。
そして美貴の前に座っているよっちゃんさんも、ただのよっちゃんさん。

美貴はよっちゃんさんがよっちゃんさんだってこと以外のことは何も知らない。
よっちゃんさんも、美貴が美貴だってこと以外は何も知らない。
それだけでいいのだ。それしか、いらないのだ。
欲しくなったら出会った薄汚れた路地裏に行けばいい。
そこによっちゃんさんがいれば、美貴とよっちゃんさんの仲は成立。
それだけ。そう、それだけ。
出会ったのは、多分…一週間くらい前だと思う。
いつも通るきったない路地裏を通りかかった時、目があった。
そして座り込んでいたよっちゃんさんが歩きだしたから、美貴もその後についていった。
東京という名に相応しくって言えばそんな感じ。
だけど、蓋を開けてみればこんなもんなのかなって思うような場所が最初だった。
南京錠で鍵をかけられた扉。
その中に広がる空間が、よっちゃんさんのそういう部屋らしい。
何となく名前を訊いたら『別に何でもいいじゃん』と言われた。
だから何て呼ばれてるのか訊いた。
意味はない、何となく声と聞いてみたかっただけ。
よっちゃんさんは少し眉間にシワを寄せて『色々。適当に呼びたきゃ呼んで』と言った。
だから美貴はよっちゃんさんをよっちゃんさんと呼ぶことにした。
それは、よっちゃんさんの後ろを歩いている時に、すれ違った女の人が『よっちゃん』と呼んでたから。
美貴は名前を教えた。
よっちゃんさんは、どうでもいいって顔してた。

靴音が鳴り響くような場所で、まるで誰かに何かを見せつけるような場所に、ソファーや机や椅子やベッドがあった。
生活感は全く無い。
モノが空間の中に置かれていて、その目的は、多分、そういうことをする為だけ。
だから、ここは特別な空間なのかもしれない。
「ソファーとベッド、どっちが好み?」
「別に、どっちでもいいよ」
押し倒されるワケでもない。
甘い言葉を囁かれるでもない。
美貴も、そんなこと望んじゃいない。
だけどよっちゃんさんが放つオーラっていうか、雰囲気っていうのは、今まで会ってきた誰よりも違って、
美貴は正直なところ、少し戸惑いを感じていた。
「そ、まぁいいや。とりあえずそのビンの中の何錠か飲んで」
「別にそんなの…」
「いいから。早くして」
そう、圧倒的に、他の人から漂わなかった何かがあって、美貴はそれに逆らえないでいた。
最初から、空気の飲まれていた。
「シラフでいたって楽しくないから、あんたはここに来たんでしょ?」
そして美貴は、それをイヤだとは感じていなかった。

ぐるぐると世界がまわる。
ビンの中に何が入っていたかなんてのは分からない。
だけど、それを飲んでしばらくしてから美貴の頭や体はおかしくなっていた。
よっちゃんさんに言われるままにベッドに行き、よっちゃんさんに言われるままに服に手をかけた。
よっちゃんさんはソファーに座って、机に両足を投げ出して、その辺にあった本を片手に大あくびをかました。
「足りなかったら適当に飲んで」
美貴が自分の服や下着に手をかけている間、よっちゃんさんはこの言葉だけを発してずっと本に目を落としていた。
沈黙。静寂。
自分の服が床に落ちていく音だけが美貴の耳にぼんやりと届いていた。

身に纏っていた物全てを体から剥がし、ベッドの上に座り込んで時を感じてみる。
目を閉じると世界が回っているのが分かって、視界がぼやけるのが分かって…それから、それから…
体の芯が疼いている。
美貴が口に含んだ錠剤の正体。多分、これ。
何種類飲んだか知らないけど、体が熱かった。
早く、側に来て欲しいって、そう思った。
「よっちゃ、ん…さ、ん」
「キリ悪いから適当に一人でやってて」
だけどどんなに美貴が求めていようがよっちゃんさんは顔すら上げない。
ぼやけた視界の先で本に目を落としているのが見えて、美貴に興味すらないっていうような顔
しているのも、何となく伝わってきた。
きっと、しばらくは相手にしてくれないのだろう。
美貴は飛びきらない頭でそんなことを思い、ベッドの上を転がるようにして進んでビンに手をかけた。


耳に届いてくる音が、自分の中から出てきているモノだっていうのは理解している。
そしてその音を奏でさせているのも自分の指だってことも理解している。
それも美貴一人じゃなくて、目の前に誰かがいるっていう状況だっていうのも理解している。
だけど、止めれないのだ。
動く指も、溢れる声も、美貴は自分の中で留める術を知らない。
何度果てたとか、そういうのはもうよく分からないなっていた。
全身が敏感になったかのように全てのことに反応をする。
少しでも空気が動いたと思えば、それが体に伝わって全身を震えさせる。
頬をつけたシーツが濡れているのは美貴がかいた汗のせい。
つけた膝が濡れていると感じたシーツに広がるのは美貴のモノ。
乾いてしまいそうなくらいに流れ出していく。
なのに、枯れることも、尽き果てることも体は知らない。

「あんた、本当好きなんだね」
いい加減どうにかなってしまいそうになった頃、机に本を置きながら立ち上がったよっちゃんさんが
ゆっくりと美貴の方に近付いてきた。
それは多分、よっちゃんさんであってると思う。
何で多分かっていうと、既に美貴の耳はぐわんぐわんと変な音をたてていてよく声が聴こえなかったっていうのと、
同じように既に目もあんまし見えてなかったから。
薬のせいなんだと思うけど、美貴の目は涙で潤みまくっていて、さらに焦点もあってなくて、世界はモノクロのよう。
だから、多分。
動きも物体も全部多分。
だけど違くても別にいいや。誰でもいい。
別に美貴はそこに誰がいたからついて来たわけじゃない。
「なんでもいいよ…早く来て」
だから誰でもいい。
ともかく、早くもっと遠くに飛ばして欲しかった。
全てを忘れさせてくれるくらい、遠くに飛ばして欲しかった。

『…ちょ…マジもぅ……んあっ!』
自分の中をかき回されながら、何処か違う所で美貴は美貴を見ていた。
悶える姿、求める姿、自分の腕に強く爪をたてている姿、色々な姿を見ていた。
そして、考えていた。
何でこんなことしてんだろうって。
逃げたとか、そんなんじゃないっていうバカみたいにカッコ悪い言い訳を唱えながら。
震える体が動きを止めればこの時間が止まるっていうことを美貴は知ってる。
だから無理にでも逃げて少しでもこの時間をつなぎ止めようとしてみる。
だけど逃げたらそこで終わりもきそうになる。
だからすぐに素直に快感に身を委ねる。
ぐるぐる回り続ける世界のもっと小さな世界の中で、美貴は周り、そして逃げ続ける。
現実から逃避して、ただ楽な快楽に身を委ねて。
まだ足りない、遠くに、高く飛ぶにはまだまだ足りない。何かが足りない。
『も…もっ、と…』

ここでなら素直になれるのに、どうして他ではそういかないんだろう。
逃げて、逃げて、その悲しそうな瞳から逃げて、恐れて、泣いて、最後は笑う。
どうしようもないから。美貴が弱いから。だからこうやって全てを千切りたくなるような衝動を抑えて身を振るのだ。
何が足りないかっていうのは、気付いてる。
それが誰かじゃ満たしてくれないっていうのも知っている。
だけど、美貴は失う恐怖を覚えているから、ニ度目の恐怖を回避しようと走り回るのだ。
そして偶然の遭遇を願うのだ。
一度目の出会いはこの路地裏。
一度目のさよならは隣の路地裏。
美貴はニ度目の出会いを望んでいて、だけどそれを恐れていて、こうやって逃げていく。
走って、ぶつかって、抱かれて、慰めて、慰められながら。
壊して欲しいんだ。本当に。
何もかも、過去も、今も。
出来ないことを知っていて、こうやってめちゃくちゃにされることを望んでいるんだ。
バカみたいな快楽はどんな薬よりも現実逃避をさせてくれるから。
ねぇ、気付いてる?美貴、気付いてる?
いつの間にか涙の種類が変わってるって事に。
ねぇ、気付いてる?そんな涙を見られてたってことに。

カラカラになっていた喉のことを知ってから知らずか、ソファーに座って、机に両足を投げ出して、
さっきまで読んでいたらしい本を片手に持ったよっちゃんさんが、まだ封の開けられていない
ペットボトルを美貴に投げてくれた。
「勝手に出てってね。あたし、もう飽きたから」
伏せられた目に見える一瞬の表情に、どこか自分と似た空気を感じたのは気のせいだったんだろうか。
それとも…まぁ、いいや。きっと訊いてもよっちゃんさんは教えてくれないだろう。
散らかった服を着ながら美貴はもう一度よっちゃんさんを見た。
もう表情は見えなかった。

これが、美貴がよっちゃんさんを見た最後だった。
美貴の逃避行はまだ続いている。
それでも美貴はまた行くのだろう。
あの道へ。
そして、きっとまたその手を握る。
掴めないことを知っていて、掴まないことを知っていながら。
それでもいいって思いながら。
逃げるから、一緒に隣で逃げ続けてって願いながら。

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