「ただいまー」


帰り慣れた家、使い慣れた鍵。
いつからか帰る家には毎日じゃないけど光りが灯るようになり、
灯っていない時だって、一緒に光りのボタンを押すようになった。

「ん、おーおかえり」

『ただいま』の言葉を言えば返ってくる『おかえり』の言葉。
昔は側にあってあたり前だった言葉が一度遠くに離れてしまい、そしていつしかまた私の側にあるようになった。
この短い言葉が私の心をほかほかにさせてくれるということを、私はこの家で知った。
この人と一緒にいて、知った。
もう、どれくらい前のことだろう。

「風呂準備しといたから先入っちゃいなよ」
「うん、ありがと」

ミュージカルのリハーサルに夜中の生放送のラジオ出演。
他にも色々つまった毎日毎日のスケジュール。
時間はあっという間に経っていき、気付けばもう随分走り続けてきている。

着ていた服をダラダラと脱ぎながら、お風呂場の扉を開けたら目に入ってくるのはいつもと同じお風呂場で、
少しずつ変わり続けて、だけど変わっていない場所がここにあった。
いつもよりも少し熱めのシャワーを時間をかけて浴び、バラの香がするお風呂に浸かる。
手足を伸ばせるだけ伸ばしてぶくぶくと水の中に沈んでみた。
当たり前だけど、しばらくしたら息が苦しくなってしまい、私は大きく息を吐きながらお風呂から顔を出し、
濡れた髪を両手で後ろに撫でつけた。

静かな空間に水の落ちる音が聞こえる。
手足がふやふやになっちゃくくらいに長く入ったお風呂。
いい加減出なきゃなーって思っているのに、疲れとか、何だか色々なモノが出てきて体が思うように動かなかった。
お風呂場の外から私よ呼ぶ声が聞こえて、声だけで返事をすると、その声が呆れたように笑って言う。

『寝てんのかと思った』

変わらないモノ。
変わらない場所。
きっとそれはここだけじゃない。
他にも沢山ある。
分かってるはずだけど、気付いてるはずだけど、意識するっていうことが少ないんだ。
だから、こんな日とかに思い出したように感じるんだ。

ダルダルの体を引きずって、お風呂から這い上がるようにして出て、スローな手つきで体を拭いて、
いつの間にか用意しといてくれた寝間着に袖を通す。
ちょっと温かいのはどうしてだろう。
ひょっとして、抱きしめててくれたからかな。
肌に伝わる冷たさよりも心地よい温度。
ボタンを一つ一つゆっくりととめ、ソファーに座ってテレビを見てる彼女の隣に腰を下ろした。

「あー、全然髪乾かしてないじゃん。風邪ひくよ?」
「だって面倒だったんだもん」
「ったく…ちょっとまってな」

ソファーが少し浮いて、隣から温もりが消えて、それから少し音がして、髪に指と温かい風の感触を受ける。
久々だなーって思いながら、目を閉じてその感触を感じた。

「…ついに、言っちゃった」
「うん、聞いてた。ついでに緊張感も伝わってきた」

ブオーブオーッと風が髪を揺らす。
滑らかな指の動きが私のことを撫で回す。
時たま入る攻撃のような指の動きに抗議をしたら、すぐ後ろで笑ったような気配を感じた。
それからしばらく、沈黙が訪れて、ここにはドライアーの音だけが残り、そしてその音が
カチンというプラスチックの乾いた音と共に消えると、後ろからいつも一緒にいて、ずっと感じていた
優しい腕が私の前に回されてきた。

「どうしたの?」
「んー、梨華ちゃんがだっこして欲しそうだったから」
「それ逆でしょ?自分がだっこしたかったんでしょ?」

彼女が笑うと私の半乾きの髪が少し揺れる。
私が笑うと彼女の腕も体も一緒に震える。
一緒にいるっていうことの大切さ。
そして一緒にいれるってことの幸せ。
毎日じゃないけど、こうやって感じられる。
それは、きっと、絶対、これから先も。
私は、感じていたい。

「…あの、さ」

また少しの静寂があり、彼女が私の肩に顎を乗せて口を開いた。
戸惑いがちな口調とは違い、腕に入る力。
そのまま首に感じた唇の柔らかさ。
前に回された手に指を滑らせ、そのまま手を重ねたら、器用に指が動いて私の指と手を捕まえた。

「ここにも、あるから」
「…ん?」
「ここにも、あるから…」

同じ言葉を二回くり返して、それから彼女は私の手を掴んで思いきり私のことを抱きしめた。
久々に感じる力強い抱擁。
頬に金色の髪を感じる。

「梨華ちゃんが、迷ったり、困ったり、泣きたくなったり、一緒に笑いたくなったりしたら、
 戻ってくる場所は、ここにも、あるから…」

 

───皆がいるよ。
ずっと、仲間な皆がいるよ。
で、あたしもいる。
卒業とかさ、まだ先のことだけど、一年も先のことだけど、あのさ、覚えておいてなんて言わないけど、
言っておきたいって、そんな風に今思ったから、言っておく。
あたしは、ここに、いるから。
何処に行ったって、ここにいるから。
きっとこの先、沢山の分かれ道があって、二人が歩く道がどんどんと離れちゃうかもしれないけど、
だけど、あたしはここにいるから。
あたしも、梨華ちゃんも、何処に行ったって、あたしはここに、ずっと、いるから───

 

心地よい沈黙が流れ、彼女の温度を背中に感じ、時計の音が流れ続ける時間を告げる。
私達はずっと走り続けてきた。
それはきっとこれからも一緒で、違うかもしれないけど、今はきっと走り続けていくんだろうって思う。
だから、きっと、私はこれからも走り続けていく。


築きあげてきたモノ。
出会った人達。
それは一生消えない場所。

一つ進めば道が出来て、その道は消えることなんかなくて、失敗も成功も全部がその道の一部になっている。
それは私が歩いてきた道で、私達が歩いてきた道。
この先、同じ道だけが続くなんてない。
でも、それでも、見失う場所はない。

これも、気付いてたこと。
だけど、意識することがほとんどなかったこと。

「あのね…」

私が言葉を発しようとした瞬間、重ねられた手が離れて、感じていた背中の温もりもスパッと離れた。
はっ?何?何に何何??
ワケわかんなくて振り返ろうとしたら、背中をバチーンと一発はたかれた。

「いったーい!ちょっと何すんのよ!!」
「何って、ウチの愛のムチ」
「は?ワケ分かんないんだけど!?」

キッと睨むようにして振り返ったら、悪戯っ子みたいな顔をした金髪の彼女の顔が両目にぐわーッと飛び込んできた。
白はをニカーッと見せて、長い指でがしがしと自分の頭をかいている。

「へへっ」
「ヘへッって…」
「ははっ」
「…ハハッって」

まだニカニカしている頬をぐしーっと掴んで縦横ナナメにひっぱり回す。
みるみる白い肌がピンクに赤く変わるのを横目に見つつ、ちょっと涙目になってる彼女のおでこに
こつンと自分のおでこをぶつけた。

「…もー、何なのよ」

 

 

「んー、もっと笑おうと思って」

 

 

ほっぺが痛いんだろうか、まだ涙目の彼女が、涙目のままニカッて笑った。
大きな目を三日月型にして、ニコニコ笑った。
目を細めた拍子に流れた涙が頬を伝い、そのまま私の指を静かに濡らした。

「あたしは、もっとさ、これからもさ、沢山笑うよ」

それだけ言ってぐいぐい顔を動かして、私の手から逃れると、彼女はベッドに飛び込んだ。
二人分の布団なのに、中央に滑り込んだ。

「ちょっと!それじゃぁ私寝れないじゃん」

追い掛けるようにソファーから立ち上がってぽこぽこ布団を叩いたら、突然起き上がって私の腕を掴んで
そのまま布団の中に引きずり込まれた。
二人分の布団の中央。
ピとーッとくっついて二人分が1.5人分になる。

彼女は暗い布団の中できっとニカニカ笑ってる。
ギュムーッと抱きしめられて、耳に彼女の心臓の鼓動を感じた。
それだけで、私は突然、今、私はここにいるこということを実感できた。

髪を撫でてくれる手。
抱きしめていてくれる腕。
感じるモノ、感じれるモノ、すぐ近くにあって、掴める距離にいてくれる。
言葉にすれば、すごく短い。
だけど、その言葉はすごく重くて、すごく大切で、中々口に出すことが出来ない魔法のような言葉。


その言葉を私は囁く。
すごく自然に、すごく素直に。

彼女はこの暗闇の中でどんな表情をしてるんだろう。
そんなことを思いながら、私は彼女の体に腕を回した。

私は、夢を見る。
私は、夢を追う。
走り続けて、走り続けれる間はきっと走り続けて。
それが出来るのは、今まで道があって、これからの道があって、色々な人がいて、あなたがいて、私がいるから。
道がなくてもつくっていける。
つくっていく。

あのさ、疲れたって思ったら、今日みたく背中はたいてくれる?
今みたく髪を撫でてくれる?
眠くても、私の我がまま、ちょっとはきいてくれる?

すごく小さく、彼女にだけ聞こえるように呟いてみたら、私の頭の上からは寝息が聞こえてきた。
なんとも心地よいけど息苦しい布団の中からもぞもぞと抜け出して、ちょっと口を開けてる寝顔を覗き込んだ。
それからジーッとその顔を覗き込んで、布団をちょっと下にずらしてさっきみたいに腕の中に潜り込んだ。

…バレバレだよ。
私が何回寝顔見たと思ってるのさ。
でもまぁ、今度は私が寝たフリしてあげるか。
だからさ、ほれほれ、言って下さいな。
あなたのお返事聞かせて下さいな。

ニマニマを噛み殺して腕の中でジーッとしてた。
でも、いつまで経っても彼女の声は聞こえてこない。
んーんーっと思っているうちに、私はそのまま眠りに落ちてしまった。

『んなこと訊かなくたって分かってるっしょ?』

おそーいおそーいお返事は、この日から随分先に私は聞くことになる。
彼女から言わせれば二回目らしいけど、私にとっては一回目。
そんなひとみちゃんのお返事を、私はこの日から随分先に、背中の痛みと、優しい指の感触と一緒に聞くことになる。

 

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