「雨は好き?」
「雨はキライ」
「じゃぁ、雨が降ったらあなたに会いに行くわ」

=memories in the rain=

いつかの雨の日。
あたしはバス停に立っていた。
屋根のない停留所と車があまり通らない道。
夜になる手前の時間帯に、あたしは濡れたジーパンの裾を気にしながら傘を叩く大粒の雨の音を聞いていた。

あたしは、雨がキライだ。

***
『眉間に皺がよってる』
数年前の夏の記憶。
今よりも酷く暑くて、太陽は残酷なくらいにアスファルトを焼いていた頃の思い出。

隣で扇風機にあたっているアイツは、あたしの眉間を人さし指でつっついてからその指を弾いた。
蝉が鳴いてて、グラスには水滴がついてて、開けた窓からは風が吹き込んでいて、あたしとアイツの髪を揺らして遊んでたんだ。


アイツとの出会いは夏。
何故かどんな恋愛よりも記憶に残っている夏の思い出。
夏に出会って、夏に恋して、扇風機のスイッチを切る頃にさよならをしたアイツと背の高いひまわりが見守る側ではじめてしたキス。
照れくさくてわざと素っ気無いフリをしてアスファルトを蹴って駆け出すと、熱い風が涼しく変わった。


大声で叫んだって空があたし達を吸い込んでくれそうだった日々。
信じようとすらしなかった永遠を夢にみた。

あの頃は雨に打たれていることが好きで、雨雲を見つめながらよく天を仰いでいたんだっけ。
そして偶然見ることの出来た虹に感動とかしてたんだっけ。
一番記憶に残っているのは、空が青くて、雨が冷たかったからだろうか。
それとも、全てが初めてだったからだろうか。
あたしはその答えを知らないけれど、フとした時に思い出すのはいつだって制服を着ていた時の夏だ。

この頃、あたしは雨が好きだった。
夏の痛い太陽よりも、夏の雨の方が好きだった。
多分、アイツよりも雨が好きだった。
そんなあたしがいつからか雨を好きだと思わなくなり、そしてキライになっていた。
一年、また一年と月日を重ねるごとに雨の日は憂鬱になり、天気予報の傘マークを見ればため息が漏れた。

『空が青いね』

今日は灰色だよ。
灰色ばっかだよ。
最近は本当、灰色ばっか。

***
ただでさえ本数が少ないバスは、時刻表の時間を10分以上過ぎたにも関わらず姿を見せる気配がなかった。
雨は強くなる一方で、辺りは分を刻むごとに暗くなっていってく。
手に持った傘は邪魔。本を読むことすら許してくれない。
足下に広がる雨水は容赦なくジーパンの色を変えていく。
本当、雨って大っキライだ。

何度目になるか分からないため息をついて、片方の手をジーパンのポッケに突っ込んで俯いていると、視界に黒いブーツが入ってきた。

「バス、もう行っちゃいました?」

声が雨の音に混じって降ってきた。

***
『また恐い顔してる』

雨の日にはよくこう言われる。
自分でも気付かないうちに眉間に皺がよってるらしい。
頬杖をつきながらパンをかじっている時も、駅に向かう帰り道でもだ。

色とりどりの傘が道を埋め、立ち止まった交差点で隣の人の傘の雫が服にかかる。
些細なことなのに、心のどこかで雨に舌打ちをする。

動き出した人並み、動き出す電車。
同じように動き出したあたしは、どこかで何かの忘れモノをしたかのようだった。
夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬を越えて春を迎えていくうちに大事な何かを少しずつ落としていて、気付けば小さくても硬く醜いギザギザの石ころだけがひっかかってあたしの中に残ってた。
灰色が、あたしの中にも広がってた。

***
顔を上げると、真っ黒な傘が見えた。
黒いブーツに黒いコート。パッと見全身黒ばっか。
失礼だけど、葬式の帰りか?って思ってしまった。

「あの…バスは…」
「あ、あぁ、まだです。まだ、来てません」

雨の中に消えてしまいそうな声なのにどこか耳に残るような高さの声は、傘で隠されたこの人の年齢がそんなにいってないことをあたしに強制的に教えてくれる。

「そうですか。ありがとうございます」

この言葉を境に雨はさらに強さを増し、あたし達の間には沈黙が流れた。

***
余計な言葉を紡ぐだけの会話なら、それはあまり必要ないと思う。
相手との終わりが見えてしまった時、生まれた沈黙に耐えきれずに逃げ出したくなって逃げれば終わり、逃げずに立ち向かっていたって終わる時は終わる。

いつからか人との付き合いが苦手になっていて、誰かと時間を共有するということが苦痛になってしまっていたあたしにとって、言葉というのはあまり意味を持たないもののように思えた時期があった。
遠くない過去、近い過去で。

何処かで何かを見失う一瞬、そっと腕を引いてくれたのは、近くにいた誰かだ。
あたしはあたしを取り戻し、過去は現実の思い出となる。
言葉は意味を持ち、伝える事はその存在を強くした。
灰色は、ほんの少しだけ薄くなった気がした。

***
傘を叩く雨の音は強まる一方。
隣に立った黒い傘の持ち主は、その存在をたまに確かめないとそこに立っているのかどうか分からないくらいにただジッと身動きもせずにバスが来るのを待っていたのに、突然雨音に負けそうな声の大きさで言葉を発した。

「雨はキライ?」
「…はい?」
「雨は好き?」

変な人。そう思った。
何言ってんだろって。
だけど、言葉を返さずにこうして二人だけで佇んでいるのもイヤな気がしたので、一言、同じように返した。

「雨はキライ」
「じゃぁ、雨が降ったらあなたに会いに行くわ」

それだけ言うと彼女は来た時と同じように音も無くっていうのが正解のように姿を消した。
そして間もなく、20分以上も遅れたバスは停留所に滑りこんできた。

***
彼女はあの時、あの場所に本当に存在したのだろうか。
結局あの停留所からバスに乗ったのはあたし一人だった。
他の人が聞けば気味悪い出来事のようにも思えるかもしれないが、あたしは何故かそういう風には思わなかった。
あの日以来、雨はもう数週間降っていない。
空は高く、青い日々が続いている。

「最近ボーっとしてること多くない?」

灰色の空気がなかなか訪れないことを、あたしは気にするようになっていた。
雨はキライだ。
だけど、あの不思議な出来事が気になってしかたない。
雨が降らなければあの日の出来事を確認することも出来ない。
気になってしょうがない。
青が多い世界で、何故あたしはこんなにも灰色を確認したがるのだろ。
こんなことを考えたら、意味もなく口から笑みが零れた。

***
昨日まで晴だと言っていた天気が、朝になったら変わっていた。
窓の外の雲は厚く、冬の風は雨を運んできそうな気配だった。
あたしは天気予報士が言う夕方から夜にかけて雨が降るという言葉を信じ、傘を掴んであのバス停に向かった。
雨だというのに、心が落ち着かなかった。
イヤ、落ち着いていたのかもしれない。
雨を待ち遠しく思っていたこの感覚は、いつかの自分を思い出させた。
そして小さくて硬く醜いギザギザの石ころは、いつの間にか姿を消していた。

***
バスはまた遅れていた。
だけどあたしはそのことをありがたいと思っていた。
あの時の時間、そう、そんな時間になればきっと彼女は現れる。
そんな考えが頭の中にあったから。
妙な確信。
そんなのがあったから。

***
「また、会えたね」

黒いブーツが視界に入った時、あたしはあの日に戻ったかのような感覚を覚えた。
しかし、それがあの日ではない今日だというのは、意味を持つ言葉が教えてくれる。

「雨はキライ?」
「…雨は、好きじゃない…かな」
「じゃぁ空を見せてあげるわ」

ほら、今日はあの日じゃない今日だ。

***
雨の日の空の色は?
晴の日の空の色は?
***
黒い傘があたしの頭上に移動し、あたしの頭上にあった透明なビニール傘が雫を垂らしながら地面に着いた。
黒い傘の下には、少し歪んだ青い空と白い雲が広がっていた。

「空は好き?」
「空は、好き」

違う、空も好きの間違いだ。
だけど今は空が好きだ。
だから、空は好きだ。

青空の下で手を伸ばし、あの日よりも弱い雨に指先を触れさせる。
今あたしの指で弾けた雨は、遥か彼方の上空から様々な物語りを詰め込んできたのかもしれない。
一滴の雨が記憶する空の物語り。
そんな長い旅の終わりをあたしの指が知る。

「綺麗でしょ」
「…そうだね」

降り続く雨の記憶を強く意識し過ぎて雨がキライになったんだろうか。
それとも、ただ無邪気な子供時代が過ぎていってしまっただけなのだろうか。
考えてみても、やっぱり分かりそうもない。
だけどあたしは思った。

「ごめんね。私の傘、ちょっと曲がってて」
「いいよ、全然」

こんな物語りに触れれるのなら、雨もそんなキライじゃないって。
晴の日には見れない少し歪んだ青空が見れるなら、雨も悪くないなって、そう思った。

 

【後書き】
メインのBGMは映画『アメリカン・ビューティー』より『ANY OTHER NAME』
その他、この短編を書くにあたって様々な言葉をくれた音楽達。
そしてそれを紹介してくれた友人に感謝を込めてこの作品を贈ります。
雨は、キライじゃないです。むしろ好きです。

 

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