いつだって、どこにいたって、繋がった糸は切れないはず。
そう信じてるから、あたしはもっと先まで歩いていける。

 

++ はるのうた ++

 

20回目の春が来て、19回目の春が終わりを告げた。
ベランダでぼけ−ッと下の道を歩く猫を見つめながら、あたしは陽射しを頭のてっぺんに受けている。
さっきまで暗かった空の色は抜けるような青空に変わっていて、
桜の花びらが浮かぶ水たまりには青い空と流れる白い雲が映っている。

春はゆっくり流れて、風が青空を歪める。
19回目の春も、20回目の春も、そんな違いはなかった。
桜の開花の時期が早いか遅いかってくらい。
そう、つまりあたしは結構幸せ者ってやつだったりするのだ。

いつの間にか姿を消していた猫の代わりにあたしの意識を持っていかせるのは脳天気な鼻歌。
軽やかとまではいかない包丁の音と一緒に、テレビも音楽も何もつけていない
家中を埋め尽くしていたりする鼻歌。たまに音が外れるのはいつものことで、変な感じだけど、外れないと落ち着かない。
きっとこんなこと言ったら『もうっ!』とか言ってあたしの腕を叩いたりするんだろうなぁなんて
思いながらあたしはいつも気付かれないように自分で正解な音をとったりしてる。
そう、つまり一緒になって鼻歌を心の中で歌ってたりするってこと。
鼻歌泥棒にならないように、心の中で歌ってる。
たまにハモったりしながらね。

「次は何の曲がいい?」
「何?鼻歌リク?」
「違うよ。デュエットリク」

相変わらず不規則なリズムで聞こえてくる包丁の音だけど、あたしと彼女の間に流れてるモノって
いうのはそんなにも悪いリズムじゃないらしい。

彼女は知ってる。
あたしがこっそりとハモってることも、一人でソファーに座ってる時に
わざと音を外して鼻歌を歌ってることも。

「じゃぁ梨華ちゃんのオススメで」
「それじゃぁリクになってないじゃない」
「リクのリクだからリクでいいんだよ」

窓を開けたままカーテンを閉め、あたしはゴロリとフローリングの床に寝転がってリクを待ってみたりする。
ポカポカで気持ちいいなぁなんて思って瞼を閉じてみれば、日頃の睡眠不足と疲れのせいで
一気に眠りの世界に引き込まれる。
ちょっとした油断がね、そう、ちょっとした油断がいけないんだ。
ほんの一瞬で夢の世界に旅立って、ほんの少しで戻ってくる。

こんな夢の旅をもう何度したことだろう。
最初の頃はなんか一緒にいるのに悪いなーなんて思っていたけど、いつか言ってくれた
『リラックスしてくれてるみたいで嬉しいよ』なんて一言に、あたしはいっつも甘えてる。
そしてやっぱりちょっと音の外れた鼻歌とか、そっと触れてくる指の感触とかで
短い夢の旅から帰ってくるんだ。

「おはよ」
「…顔が近い」

膨れた顔を両手で押して、ちょっと体をずらしてそのまま太ももにお邪魔する。
手櫛の気持ち良さに目を閉じて、ちょっと音のズレた鼻歌を聴いて、また夢の世界に旅立とうとすると、
鼻歌がピタッと止まって額に手のひらが乗ってきた。

「ねぇ、よっちゃん」
「ん?」
「はるのうた聞かせて」

片眉を上げて質問を投げると、手が眉を隠すように額から目の方へと移動してきた。

「私ね、知りたいんだ」
「あの、言ってることがよく…」

そしてその手はさらに移動をして口を塞いだ。

「よっちゃんの、今のはるのうた」

頭がそっと持ち上げられて、後頭部がフローリングに着地をする。
太陽の毛布が梨華ちゃんに変わり、心臓の鼓動は梨華ちゃんの耳に伝わっていく。
さっきとは逆に梨華ちゃんの髪を撫でると、梨華ちゃんは気持ち良さそうに目を細めて
あたしのシャツに鼻をくっつけてクンクンと匂いを嗅いだ。

「ふふっ、太陽のいい匂い」
「ねぇ、あたしさっぱり言ってる意味が分からないんだけど」
「大丈夫、私は分かってるし、もう聞いてるから」

そう言って梨華ちゃんはまた耳をあたしの胸にくっつけてきた。

「20歳のよっちゃんのはるのうたは元気だね」
「…そう?」
「うん、すんごい元気」

風はカーテンを揺らす。
梨華ちゃんの髪も揺らす。
今日であたしは20回目の春を迎えた。
それは去年とあまり変わらない春だったけど、それはとっても穏やかな春だった。
こんな時にそっと抱き締めれば梨華ちゃんは笑うんだろうか。
そんな事を考えながらあたしも目を閉じた。

ありがとう、今年も春が来てくれて。
ありがとう、今年もこうしていてくれて。

もうすぐやってくる日。
それはあたしにとっても、梨華ちゃんにとっても、凄く大事な日。
今までみたく一緒になんてこと、随分少なくなっちゃうかもしれないけど、あたしは信じてる。
いつだって、どこにいたって、繋がった糸は切れないって。
過去があって現在があるから未来もあって、その未来で消える糸はあたし達の間にはない。
そう信じてるから、あたしはもっと先まで歩いていける。
だからさ、来年もあたしのはるのうた、聞いてね。
あたしはずっと、この先もずっと聞かせ続けるから。

照れくさくて言えない言葉をいつもみたいに胸に秘めて、あたしはもう一度夢の世界に旅に出る。
桜の花びらが舞い散る世界で、ジーパンのポケットに右手だけを突っ込んで

 

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