五月が過ぎようとしていた。もう春は背中の方にあるって思ってもいいとあたしは思っている。
春と梅雨の中間で、あたしは春の背中の気配を感じていた。
気持ちの良い夕暮れ時。空の色が雲の色を染めていく時間。
少し離れた所で、同じように柴ちゃんと空を眺めている彼女がいる。
久々に会った彼女は、少し痩せたようだった。
そう、彼女と会えない日が、もう随分と続いていた。

***


Song For…


***

フットサルの練習後、そのまま帰ろうとする梨華ちゃんを捕まえて、あたしは彼女の家に上がり込んだ。
久しぶりに来た梨華ちゃん家はやっぱしちょっと散らかっている。
ササッと寝室に入って着替えているであろう彼女に声をかけると、かん高い声で『烏龍茶』と返事がきた。
どこに何があるかなんてこと、多分梨華ちゃんよりもあたしの方が分かってる。


グラスに氷を落とて、片手にグラス、片手にペットボトルの烏龍茶を持ってリビングまで移動すると、
あたしは体をソファーに投げ出して、氷だけが入ったグラスを額の上に乗せた。
グラスの底から伝わってくる冷たさが気持ちよくて、思わず目を瞑る。


何か倒したらしい音が寝室から聞こえてくるのも、何かに躓いて聞こえる小さな悲鳴も、
久しぶりに味わうもう一つの日常。
『おじゃまします』って言うよりも『ただいま』って言う方がしっくりくる。
『ただいま』って言われたら『おかえり』って言う方がもう普通。
今までよりも一緒にいる時間は減ったけど、帰るべき所があるから…うん、何ていうか、まぁ…あるんだよ。
ファーストコンサートを控えた彼女のプレッシャーを受け止めてあげれる自分がここにいるということも、
ちゃんとアドバイスしてあげれるか分からないけど、リーダー同士の悩みとか、相談とか、
そんなのが出来る事も嬉しかったりする。


加入当初は考えもしなかったけど、お互いこんな所まで来たんだね。
梨華ちゃんに出会ってから、もうこんなにも時間が経ったんだね。
空回りな梨華ちゃんだけど、一緒にいる時間が減ってからさ、増々その存在感の大きさっていうか
梨華ちゃんの存在っていうものの大きさを痛感したんだ。


過ぎ行く時間は、あたし達を待っててはくれない。
沢山泣くことがあったって、また次の日はやってくる。
時間が過ぎ、日々が過ぎ、それでも風化しないようなものがあたし達にはある。
そしてそれは、あたし達の周りにもある。
どの道を進んでも、例え道が違くても、いつか手を差し伸べたら、その手を握ってもらえるような…
…そう、あたしはそんな強い人になって行きたい。

 

思う事も沢山あるけど、色々考えなきゃいけないこととかも沢山あって、あたしは手の中のグラスの氷が
溶けてカランッという音が部屋に響くまで、ずっと目を瞑り続けた。

 


***


「…なんつぅ格好してんのさ」
「え、何その反応。これカッコよくない?」


***

あれからしばらくして、何やらドタンバタンと騒ぎまくってた梨華ちゃんが出てきた。
それも何故かリングに上がる前のプロレスラーのようなマントを羽織って。
しっかりと前を合わせて、あたしの横にちょこんと座ると、目で『烏龍茶入れて』って訴えてきた。
あ?って思いながらも素直に従うと、梨華ちゃんはあたしに背を向けて、ひょっこりと出した腕でグラスを
掴んでちびちびと烏龍茶を飲みはじめた。
何となく、彼女が考えてることっていうか、彼女がしたいことが分かったあたしは、あえて何にも触れずに
大人しく隣でグラスを口で挟んで、隣にある背中に頭を預けた。

背中から頬に伝わってくる彼女の温度。
動かない背中に、あたしのお尻の方が右へ右へとズレていき、気づけば随分しんどい格好。
だけどもここで動いたら、なんとなーく梨華ちゃんは『私の勝ち』みたいな顔をする気がして、
そう考えたら悔しくて、あたしは無理な体制のままグラスだけを口から外した。
あークソッ、この体制首いてーよー。

「ギブ?」
「…んなはずないじゃん」

あたしがそう言うと、突然彼女がいなくなった。
支えを失ったあたしの頭はソファーの上で何度か小さく跳ね、それからふかふかクッションに着地をきめる。
グデ−っとそのままソファーに横たわっていると、マント姿の彼女が自信満々の顔で目の前に現れた。

「何?これからプロレスごっこでもはじめんの?」
「バカ。私がよっちゃんとプロレスごっこなんかしたら負けるに決まってるじゃない」

ありゃ、外れちゃった。残念賞。
未だにボゲーっとするフリをするあたしに、梨華ちゃんは見て驚くなよって顔をしながら合わせたマントの
中心を握りしめた。
ねぇ、本当はもっと早くに見せたかったんでしょ?
だけどあたしが『何だろー、何だろー』って思うように、わざとゆっくり烏龍茶飲んだりしてたんでしょ?
そうだよね、そうだよね。それだけだよね。ただあたしを驚かせたかっただけだよね。

「…なんつぅ格好してんのさ」
「え、何その反応。これカッコよくない?」

そりゃ驚いた。確かに驚いたさ。でもさ、でもさ、これじゃ驚き+αですよ。
ねぇ梨華ちゃん、あたし達は同期愛で繋がってるよね。だけどそれだけじゃないじゃん。
ってことはですよ、ってことはですね…

「せっかく無理言って衣装と同じのもう一着作ってもらったのにー」

どうやら衣装であるらしいその服(?)に手をかけて、素材をちょっと引っ張る姿は軽く18禁。
衣装?服??え?それって服で良いの?あってるの??
ってかそんなの着て唄っちゃったりするワケかよ!!

「だ、ダメだめダメだめ!!!!」
「そう言うと思ってた」
「じゃぁ…」
「変更なんて出来るはずないでしょ?そんなのよっちゃんだって分かってるでしょ」

両手を腰に当てて、豹柄のハーフトップとローライズショー…ホットパンツ姿の彼女があたしに説教開始。
ガーガーガーガーと言いながらも、なんだかその顔がちょっと嬉しそうで悔しい感じ。
ってか疑問。何でもう一着作ってもらったの?

「そりゃ練習用ですよ。練習用。お家でのレッスン着みたいな」
「…は?」
「やるなら思いきり!これでもかってくらいカッコよく魅せたいじゃない。
 その為には家でも練習あるのみ!!」

右の拳を天に突き上げ、左の手を腰に当て、右の足をソファーに置いてあたしを見た梨華ちゃん。
その顔は決意に満ちていて、こんな時なのにあたしは『こんな彼女にも惹かれてんだよなぁ』なんて
ことを思っちゃったりした。

「そっか」
「うん。でね、でね、それとね」
「ん?」

相変わらず綺麗な足してんなーって思いながらソファーに乗せられた右足を見ていたら、
顔をむぎゅっと挟まれて───

「本当はね、素足じゃなくて黒のロングブーツなの」

───ニッコリとした笑顔でこんなこと言われちゃいました。

あぁ、梨華ちゃん、あたしの梨華ちゃん。
そんな笑顔でサラリと言わないでちょーだい。
あたしはその梨華ちゃんの姿をあたし意外の誰かに見られてると思うだけでもう軽く泣きそうだよほ。

 

***

ポたッ、ポたッと地面に落ちていく雫は、間違いなく彼女自身だ。

そう、彼女自身なのだ。

 

***

どうやったらあたしが拗ねたり妬いたり喜んだり怒ったりするかを熟知している彼女は、
泣きそうな顔をしているあたしの額にチュッと音をたててからあたしの顔を放した。

「さぁ練習練習!」

いつもののようにストレッチ用の音楽をかけ、梨華ちゃんが活動を始めた。
床に座って体を伸ばす彼女の背中を斜後ろから眺めていると、今日捕まえたのは間違えだったよなって思いはじめた。
彼女にとったら記念すべき日がもうすぐ来るのだ。邪魔なんてしちゃいけない。
今日はもう帰ろうって思っていたら『よっちゃん背中押してー』なんて言われちゃった。

ねぇ、あたしいて大丈夫?何なら帰るよ、ストレッチ終わった後にでも。
『あたしって邪魔じゃね?』なんて事を一度思ってしまったら、やっぱりここにいちゃいけない気がして、
ストレッチをしながらこんな事を言ったら、梨華ちゃんが『帰っちゃうの?』なんて甘えた声を出す。
あたしがこの声とかこの言葉に弱いのを知って出してくる。
いや、あの、いいならいいんだけど。

「帰りたい?」
「そういうワケじゃないけど」
「じゃぁもうちょっと居てよ」

彼女がいてもいいと言うのなら、あたしは別に帰る理由もない。
っていうか、居てなんて言われたら、そりゃいるよ。帰らない。
だから手伝うよ、何でも。

「ごめんね、それじゃぁちょっと手伝ってもらってもいい?」
「おう。どんとこいだコノヤロー」
「フフッ、よろしく頼んだぞこのやろー」

ストレッチを終え、鏡の前で何度か体を左右に振った彼女があたしに頼んだ事は、小学校風に言うなら音楽係ってヤツ。
再生停止に巻き戻し。何度も何度も気になる所や躓く所でやり直したりする。
時には音楽無しのカウントのみで、彼女はひたすら鏡に向かい踊り続ける。
最初は『こんな振り付けなのか!?』なんて驚たけど、どこまでも一生懸命な彼女の姿は、色々なものを
飛び越えてあたしに目に入り込んできた。

鏡の前で汗を流す彼女は、カッコよくて、それでいて魅力的だった。

ポたッ、ポたッと地面に落ちていく雫は、間違いなく彼女自身だ。
そう、彼女自身なのだ。
こうやって積み重ねれたモノが彼女で、彼女を見る人の心を打つ。

少しだけ開けた窓から吹き込んでくる風だけじゃ彼女の汗は止められない。
彼女の熱を飛ばすことなんて出来ないのだ。

「やっぱりもうちょっと大きな鏡置けるスペースつくらなきゃ」

練習を終え、手渡したタオルを首に巻いた彼女が小さく呟いた。
あたしは、その独り言のような言葉に、同じように小さく『そうだね』って返した。
そしてまだ熱の残る彼女の肩に両手を置いて、そのまま華奢な体を両腕に閉じ込めた。

「汗くさいよ?」
「んー別にいいよ」

あたしの腕にかかった小さな手。
首筋に鼻を埋めるように顔を動かすと、クスクス笑って腕から逃げようとするから、
あたしは余計に力を入れて彼女をがっちり押さえ込む。

「もー突然どうしたのよー」
「んー別に」
「さっきっからそればっかじゃない」
「…うん」

本当は違う。
本当はちゃんと理由がある。
だけどそれを言うのが照れくさくて、だんまりを決め込んで、両腕の中に閉じ込めた彼女を左右に揺すぶった。

「…ねぇ、ひとみちゃん」
「んー?」
「大丈夫だよ?」

彼女の声で、あたしが止まる。
文字通り止まる。
そして彼女がもう一度同じ言葉をくり返す。

「どこに行っても、ちゃんとここに帰ってくるから。
 私、ここがあるから行けるの。本当はもっと強くならなきゃいけないんだろうけど
 それは分かってるんだけど、でも、ここがあるからもっと強くなれるの」
「…梨華ちゃん」

腕の力が抜けた隙に、彼女があたしの中から脱出をする。
そしてだらしなくぶら下がったあたしの両手を掴むと、小さな両手であたしの両手を包み込んだ。

「私も、会いたかった」

それから、抱き締めてくれた。

 

 

どうしてこんなに分かるんだろ。
あたしが考えてたこととか、あたしが不安に思っていたことを。
実は抱き締めて欲しいって思ってたことを。
ちょっと泣きそうになって、そんな顔を見られたくなくて顔を胸に埋めた。
梨華ちゃんはよしよしって言いながら、あたしの背中をぽんぽん叩いてくれた。
本当はあたしがそれをやってあげなくちゃいけないはずなのに。
それなのに、それなのに…

「…悔しいなぁ」
「たまにはいいじゃない。ほら、さっさと泣きなさいよー」
「イヤだ。絶対嫌だ。何があってもイヤだ」
「意地っ張り」
「梨華ちゃん程じゃないもん」

胸から顔を上げたら、梨華ちゃんは笑っていた。
いつも見ていた笑顔で、笑っていた。
その笑顔を見たら、肩に力を入れ過ぎていたのはあたしの方だったんだなって気づいた。
あたしは、あたしでいたらいいんだなって、そう思えた。

「梨華ちゃーん」
「何よー」
「今日泊まってっていい?」

彼女は『何でそんなこと訊くの?』って顔をしてあたしを見た。

 

当たり前のように並んでいたあたしの歯ブラシは、この日も当たり前のように梨華ちゃんの隣に並んでいた。


+++ おまけ +++

「…おぁよ」
「私仕事あるから先行くね、ちゃんと鍵閉めてってね」

慌ただしく出て行く彼女に布団の中から手を振って、寝癖頭で起き上がって大欠伸をかまし、
頭をかきながら床に散らばった寝巻きやら何やらをを拾いあげてもそもそと袖を通した。
彼女の飲みかけのカフェオレを口にしながらソファーに座り、読みかけの新聞を手にとった。
目は活字を追ってくるせに、頭の中じゃ夕べのことを思い出して、勝手に口元が弛んでくる。

シャワーで汗を流した後に潜り込んだベッドの中。
先にベッドの中にいた梨華ちゃんの頭を持ち上げて腕枕をすると、途端に彼女はグわ−っと喋り出した。
ファーストコンサートを目前に控えた今、彼女は凄いプレッシャーを感じていた。

聞いてあげることで受け止めてあげれるなら、あたしは何時間だって何日だって受け止めてあげるよ。
彼女頭の下から腕を抜いて、その腕で自分の頭を支え、残りの腕で布団の上から彼女の体の上に手を置いた。
それからずっと喋り続けた梨華ちゃんが、不意に口を閉じてあたしを見つめた。
瞳の中に込められた言葉を受け取って、布団の中で彼女の体を抱き締めた。

新聞をテーブルに置いてキッチンに行くと、そこには空のユンケルがずでーんと置いてあった。
その画がおもしろくて、思わず吹き出す。
っしゃー!今日は午後からの仕事だし、この部屋の掃除でもしてやっかな。
今日も良い天気だ。
多分、昨日よりも、その前の日よりも、ずっとずっと、青く晴れた空だって、そう思ったんだ。

 

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