◆
チカチカと光る街灯。
その下をゆっくりと歩く二つの影。
影の一つは少し大きく、影の一つはもう一つの影よりも少し小さい。
二つの影は顔を見合わせると、そっと手を繋ぎあった。
■
乾いた電子音が部屋の中に鳴り響いていた。
一定のリズムで一定の音で。
この音で目が覚めると、何故か機嫌が悪くなる。
ひとみはうっすらと目を開け、目覚ましの音を聞きながら天井を見つめた。
夢を見た後はその夢と現実の違いに軽く目眩を覚える。
・・・自分で見たくせに。
****************************************
『たとえば、あなたがもし辛い現実から逃れる為に
あなたが望んだ世界に行けるとしたらあなたは行きますか?
たとえその世界が現実とは違う世界だとしても。
あなたが望む世界なら・・・
そう、あなた自身が望む世界だとしたら行きますか?
=夢= という世界に・・・』
****************************************
気温はもうずいぶんと下がっていた。
朝一番というワケでもないのに風は冷たくて、あまり優しい感じがしない。
息を吐いたら、その息は白くなって空中の中に溶けていった。
季節は、もう秋というよりも冬なんだろう。
ひとみは片手をポケットにつっこんだまま、家の扉の鍵をかけ、
その鍵がかかっているかどうかもう一度確認してから落ち葉の舞う道路に足を踏み出した。
両方の手をポケットにつっこんで、視線を足元に落として歩くという歩き方はいつからやっているだろう。
小学生の頃だったっけ?
あれ?もう覚えてないや。
まぁ別に覚えてなくたって問題はない。
そう、問題なんて何もないんだ。
足元で広がる落ち葉を踏んで、ひとみはいつものようにアルバイト先に向かった。
何も変わらない一日の流れ。
変わらせようとしない一日の流れ。
次に踏んだ落ち葉は音をたてなかった。
少しだけ不機嫌になった。
▼
小学校の頃、あたしはずっと自分を正義のヒーローみたく思っていた。
誰にも負けなくて、誰かを守ってあげれるような存在。
背中に丸めた新聞紙で作った刀をくっつけて、自転車乗って地元を走り回ってた。
ずっと、ずっと正義のヒーローだって思ってたから。
それが変わったのは小学校の高学年の時。
昔よりももっとやんちゃになってて、背だってバレーボールやってたから大分伸びてて、
だから前よりももっともっと自分は強いんだって思ってたんだ。
でも、違った。
強いと思ってたのはただの思い込み。
そうだったんだ。
クラスの中でイジメられてる子がいた。
だから正義のヒーローのあたしは『自分が助ける!』そんな意気込みでイジメてるヤツラと喧嘩をした。
それがもう当たり前のようになっていた。
何だろう。
うん、そう。
当たり前ように思ってたんだ。
次の日からイジメの鉾先はあたしへと変わった。
小学生ながら、結構キツイと感じた。
下駄箱から消える上履き。
校庭の隅から出て来た泥だらけになった上履きをその日、お母さんに見つからないように
お風呂場で必死になって洗った。
何度も、何度も。
泣かないぞ。
絶対に泣かないぞ。
そう自分に言い聞かせて。
呆れるくらい呟いた。
自分では仲がいいって思ってた子が、突然次の日から態度が変わる。
そんなこともあった。
一番こたえた言葉が
『何で一緒にいるの?』
これだった。
何か、あぁもう違うんだ。
全部違うんだ。
そう思って、ずっと呟いてきた『絶対に泣かないぞ』って言う言葉をまた呟いた。
今だたらわかる気がする。
多分、独りでいることが恐かったんだよね。
同じようにイジメられるのが恐かったんだよね。
でも、それは今だから言えること。
昔は、正義のヒーローは泣かない。
たとえ自分が正義のヒーローなんかじゃなくなったって泣かない。
自分の為に泣いちゃ駄目なんだ。
そうやって言い聞かせてた。
言い聞かせることが会話になってた。
そうそう、今までイジメられてた子は、いつもと同じように誰と話すワケでもなく席に座っていた。
何か、もう何が何だかわからなかった。
ただ、もうその子がイジメられてる様子もなかったのを覚えている。
その頃、あたしはひたすらバレーボールに夢中になっていた。
将来はオリンピックに行くんだ。
あたしにはコレしかない。
そう思ってひたすら走り続けてきた。
そして地元の中学には通わずに、あたしは推薦で私立の中学へと入学した。
変わろうと思った。
正義のヒーローは変わろうと思った。
いつもニコニコして人当たりよくして、誰ともぶつかりあいなんて起こさなくて。
ヘラヘラ笑って過ごしていた。
誰とも本音なんてぶつけあわない。
本当のあたしは自分の心の奥底にしまいこんでしまえ。
自分を守る最高の手段だった。
光りが当たらなければ影も出来ないから。
あたしは人に影を見られることもなかった。
きつかった。
自分が自分でなくて、本当の自分を見失いそうになった。
出口の無い迷路みたいにぐるぐる回り繰り替えされる日常。
何がおもしろくて笑ってるのか。
何かおもしろくて笑顔でいるのかがわからなくなってた。
それでも全く救いがなかったワケでもない。
小学生の頃、ひたすらイジメにあっていたことを隠していたのに、気付いて声をかけてくれた子がいた。
幼馴染みの子。
ずっとずっと一緒に育ってきた1つ年上の幼馴染み。
あたしが小学校の時、向こうはもう中学生だったから、今までよりも一緒にいる時間は少なくなってた。
部活で忙しそうにしてたのも知ってたし。
それでも、たまに地元で偶然会った時とかは公園のベンチに座りながらよく話した。
あたしは隠した。
イジメられてるなんて言えなくて。
梨華ちゃんには知られたくなくて。
昔から言ってたんだ『梨華ちゃんのことはあたしが守ってあげる』って。
だから知られたくなかった。
それでも梨華ちゃんは気付いてたみたい。
でも同情するとかそんなじゃなくて、いつもみたく普通に接してくれて、
今まで通り一緒になって遊んでくれた。
それが嬉しかった。
それだけが嬉しかった。
あたしの中で、梨華ちゃんの存在だけが大きく大きくなっていっていた。
でも大きくなりすぎた風船はいつか破裂する。
突然、無数の針で破られる。
中学校から部活を終えて帰っている時だった。
いつも通る公園をつっきろうとしたら、前に梨華ちゃんと同じ背中が見えた。
間違えるはずもない背中。
その背中に知らない人の手が回された。
公園にあるかすかな光りの元、2つの影が重なりあった。
取られた。
捕られた。
梨華ちゃんをトラレタ。
あたしのたった一つの救い。
あたしのたった一つの光り。
あたしのたった一つの存在。
それが...
トラレタ
あたしは走った。
息が切れても走り続けた。
額に張り付く髪が気持ち悪くて、息切れしている自分も気持ちが悪くて。
それでも走り続けた。
現実から逃れる為に。
逃げれるはずもないの走り続けた。
その日、あたしは制服姿のまま、まっ暗な部屋の隅で一日中うずくまっていた。
弱い。
あたしは弱い。
そんな現実、認めたくなかった。
あたしは段々と荒れていった。
イライラが続いて、ささないなことでも気になってしかたなかった。
そのせいでバーレ−ボールも止めてしまった。
キッカケはささいな言い争いから。
いつでもヘラヘラ笑ってればいいと思ってたはずなのに、久しぶりに人を睨みつけた。
仲間同士だったはずが、いつの間にかバラバラになっていった。
だからあたしは足を引いた。
円の外側え。
四角いコートの外側へ。
引き金。
そんなモノを簡単に引けてしまう自分が恐かった。
諦めることに慣れてしまっていたのかもしれない。
自分に向けて放った弾は、あたしの心をずたずたに切り裂いて空中へ溶けた。
弱いあたし。
それを認めたくないあたし。
泣かないぞ。
こんな言葉、捨ててしまいたくなった。
それでも捨てれなかったのはあたしを支えてくれた言葉だから。
唯一のプライド。
それが『流さない涙』だった。
授業が終わるとそのまま家に帰る日が続いた。
両親には一言『部活は辞めた』それしか言わなかった。
追求させないような雰囲気をあたしが出していたのかもしれなけど、
両親は無理に理由を問いただそうとはしなかった。
ある日。
そう、雨の降っていた日だ。
いつもみたく学校から帰ってきたあたしは、部屋着に着替えて勉強をしていた。
それしかすることがなかったから。
そんな日に、びしょ濡れになった梨華ちゃんが家にやってきた。
母さんが買い物に行ってる時だった。
玄関で雨に打たれて制服をびしょ濡れにして、髪もびしょ濡れにした梨華ちゃんが立っていた。
風邪をひくといけないからと思ってバスタオルを取りに行こうとしたら、
後ろから梨華ちゃんに抱きつかれたんだ。
『ちょっとだけ・・・お願い』
この一言で大体察しはついた。
あたしは正義のヒーロー。
梨華ちゃんを笑わせてあげるのが役目。
泣かせてなんかいけない。
守ってあげるんだ。
幼い頃の記憶が蘇ってきた。
あたしは、背中で震えている梨華ちゃんを感じていた。
声を押し殺して泣いているのに気付かないフリをした。
少し落ち着いた梨華ちゃんを風呂場に連れて行き、あたしは部屋に戻って自分の着替えを持って下りた。
扉の奥から聞こえるシャワーの音と、水が床に落ちていく音。
扉の奥で泣いているであろう彼女を思って、あたしは口をぐっと結んだ。
あたしの部屋にやってきた梨華ちゃんは、紅茶を飲みながら何度も『ごめんね』そう謝った。
別に謝ることなんて何もないのに。
梨華ちゃんは恋人と喧嘩をしたらしい。
そしてそれが原因で別れてしまった。
雨の中、梨華ちゃんは泣きながら走ったんだって。
そして気付いたらあたしの家の前にいた。
あたしの大事な幼馴染みは『ひとみちゃんみたいな人が恋人だったらよかったな』
なんて言いながらもうひと粒だけ涙を流した。
複雑な気持ちだった。
梨華ちゃんを泣かせたヤツが憎い気持ち。
それでもまた梨華ちゃんの一番になれるんじゃないかっていう気持ち。
そんな気持ちを持った自分が一番嫌いだった。
どんなに優しく抱きしめたって、それは幼馴染みの抱き締める。
どんなに優しく髪に唇を落としたって、それは幼馴染みのキス。
涙目で笑いながら『ありがとう』と言ってくれる梨華ちゃんを見て、あたしは自分が卑怯だって思った。
正義のヒーローの恋は終わりのない駅へ向かって走りだしていた。
止まらない電車。
停車することの出来ない電車。
幼馴染みに恋をしていた正義のヒーローは卑怯者。
告白もしないまま諦めて、いつだって都合のいいように振る舞まっていた。
何かある度に自分を訪れてくれるのが嬉しくて、優しい王子様になった気分で抱きしめていた。
傷つくのが恐くて、独りになるのが恐くて。
梨華ちゃんを失うのが恐くて。
気持ちは心の奥へ封印した。
あたし達は弱い。
お互い、傷に触れないように語り合い、都合のいいように振る舞う。
中学生の頃、そんなゲームじみた会話をしていたんだと思う。
何だか、大きな穴を感じた。
このままだったら梨華ちゃんがいなくなってしまう。
あたしの梨華ちゃんがいなくなってしまう。
歪んだ愛情はカタチを変えていった。
あたしを置いて、どんどんと強くなっていく梨華ちゃん。
昔みたいに接してくれる。
それが恐かった。
梨華ちゃんは強くなっていくのに、正義のヒーローは弱いまま。
必要とされなくなるんじゃないかという恐怖が襲いはじめた。
あたしは強くなろうとはせずに、そんな現実か逃げるようになった。
学校で笑っている自分。
梨華ちゃんの前で正義のヒーローぶる自分。
何か、疲れてしまったんだ。
演じていることに。
光りの当たる舞台になんて立ちたくない。
でも独りになるのはすごく恐くて寂しくて。
笑い続けた。
演じ続けた。
そして部屋で膝を抱えることが多くなった。
そんな日が続いた頃。
多分自分で限界を感じていた頃。
不思議な事が起きた。
部屋で寝ていたはずなのに、目を覚ますとあたしは教室にいた。
意識がきちんとある。
正直、ワケがわからなかった。
教室にはいつも一緒にいる子が集まっていて、あたしはその輪の中にいた。
何故か素直に笑えて、すごく久しぶりに心から笑えて。
小学校ぶりにきっと笑ったんだと思う。
目を覚ましたら梨華ちゃんと一緒に笑いながら話していることもあった。
昔みたいに。
一緒になって公園で遊んで、一緒になって笑っていた。
あたしはいつも乾いた音で目を覚ます。
現実と結んでいる機会の発する音で目を覚ます。
似たような夢を何度も見るようになって、あたしは気付いた。
『あぁ、この世界はあたしが心の中で望んでいた世界なんだ』と。
中学生。
そんな時に、あたしは=夢=という世界を手にいれた。
そんな世界へと逃げる術を手にれた。
そう、弱いから。
あたしはすごく弱いから。
汚れた上履きも、中傷的な言葉の書かれた手紙も、全て、そう、全て奥の奥に隠せる。
正義のヒーローは分厚い仮面を被っていつだって立ってるんだ。
重くて、重くて取ってしまいたいのに取れない仮面。
あたしは正義のヒーロー。
そう、正義のヒーローなんだ。
冷えた梨華ちゃんの身体の温もりは、今でも忘れられない。
■
「ありがとうございました。また、御利用下さいませ」
機械的にくり返される言葉。
いつからか自分なりに言い方の法則が出来た。
だからペースを崩されると少しイライラする。
土日は忙しいからなおさらだ。
カウンターで忙しそうに動き回るスタッフも、フロアで忙しそうに動き回るスタッフも、
何処かちょっとピリピリしている。
高校を卒業してから、あたしは進学をせずにこのレンタルビデオ屋でバイトをしている。
最初はおぼつかない手つきだったのも、春から冬に変わるのと同じように変わっていった。
「マスターバック行ってきます」
返却のスピードだって上がった。
質問された時の対応だってちゃんと出来るようになった。
きっと良い笑顔でいれてるはずだ。
必要以上の演技者の仮面はいらない。
生きていくうえで、絶対に仮面というのは必要なモノだと私は思う。
それが重かったり軽かったり重さを感じずにつけている仮面だとしてもだ。
私の場合は重くてしょうがないはずなのに、付けている時はそれが酷く自然なのだ。
「すみませぇん」
「あ、はい」
ニッコリと笑えば、ほら、この人も笑顔になった。
色が白いだの、顔が綺麗だの、髪が綺麗だの梨華ちゃんは言ってくれる。
だからあたしはそれを守っていこうと思う。
『笑顔が好き』と言ってくれる梨華ちゃんの為に笑顔の練習だってしてる。
でも...
心から笑える笑顔なんてもうとっくに忘れてしまった。
疲れるな。
そう思うようになりはじめた。
仕事でつける仮面の重さが一番始めよりも重くなり始めた。
常連さんと交わす笑顔もしんどい。
「こちらの商品でよろしかったですか?」
交わされる言葉も、ありふれた会話も、重さが感じられない。
両足が地面につかず、宙に浮いている感じ。
あれだ、現実感がないんだ。
全ての言葉に意味を持たせようなんて思っていなかった過去。
交わされる言葉だけでも嬉しかった過去。
ありふれた毎日を何も感じることなく過ごせていた過去。
いつから何処かに置き忘れた。
取り戻し方も忘れた。
違う世界の甘美をしってしまったあたしは簡単に現実という世界から片手を離した。
繋いでいてくれる一つの音だけを残して。
「ありがとうございました」
普通の会話をするのもしんどくなっていた。
甘い媚薬。
一度手にしてしまうと逃れられない世界。
誘惑の香りを放つ世界で、あたしはまた踊りだそう。
「いえ、また何かありましたらお声おかけ下さい」
へたくそな日本語を並べて交わす会話よりも気持ちの良い世界。
堕ちていく自分に気付いてるくせに止めようとしない自分。
「あ、ひとみちゃん」
それはその世界がこの現実よりも居心地がいいから。
「梨華ちゃん」
それはその世界がこの現実よりも傷つかなくていいから。
「今日はもうおしまい?」
その世界は温くて気持ちがいい。
「うん、もうすぐあがりだよ」
その世界でならあたしは・・・
「じゃぁ一緒に帰ろう」
もっと梨華ちゃんと一緒にいれるから。
▼◆
その時、あたしは自分の席で目が覚めた。
部屋の隅で眠っていたはずなのに、目が覚めたら自分の席にいた。
見なれた教室に、見なれた机。
でもそこにいたのはあたしと梨華ちゃんだけ。
目が覚めてボーッと梨華ちゃんを見つめていたら、梨華ちゃんもあたしの方を優しい顔で見つめていてくれた。
ただ、それだけ。
でも、十分だって思った。
■
「珍しいね」
「何が?」
「ここんとこ、梨華ちゃんがあたしのバイト先に顔出すことなんてなかったから」
すっかり寒くなった空。
あっという間に暗くなる世界。
冷たい風があたし達の間をすり抜けていく。
「あぁ、ちょっと最近忙しかったから」
梨華ちゃんは最近黒くした髪に手をかけて笑った。
黒い世界に溶けてしまいそうな黒い髪。
あたしの知らない間に変わっていく梨華ちゃん。
「・・・しらなぃ」
「ん?何か言った?」
「あ、いや別に・・・うん、何でもない」
醜いな、あたし。
こうして梨華ちゃんと一緒にいるとそう思うことが多い。
自分の中の声と、自分の発する声。
それが違うから時たまこぼれる内なる声。
聞かれたらいけない声。
聞いて欲しい声。
「最近どう?」
「う〜ん、得に変わったこともないかな。ひとみちゃんは?」
「あたしも得には無いかな。変わるような生活してないし」
一杯練習した笑顔。
梨華ちゃんの前で上手く出来てるかどうかは分からないけど、多分、笑えてる。
「・・・そっか」
「どうしたの?」
「ううん、何でもない」
サッと表情を隠されたのがショックだった。
たったそれだけだけどショックだった。
あたしに見せれない表情。
そんなの嫌だ。
あたしに見せてくれない表情。
そんなの嫌だ。
「今日はこの後何か予定あるの?」
「あ、うん。ちょっと明日までやらなきゃいけないレポートがあるんだ」
「そっか」
「うん、ごめんね」
梨華ちゃんが謝るようなことは何もない。
でも、梨華ちゃんはよく謝る。
あたしに、よく謝る。
「いいよ、謝るようなこと何もないんだし。 予定あるのにわざわざ来てくれてありがとね」
「私がひとみちゃんに会いたかっただけだから」
交わされる言葉にこもった気持ち。
それがすっと暗い世界に吸い込まれていく気がしていた。
そしてそのままあたしもその世界に吸い込まれて、いつかは溶けてしまう。
そんな気がしてならないかった。
「ねぇ、ひとみちゃん」
「ん?」
「何かさ、相談事とかあったら言ってね。 出来るかぎり力になりたいって思ってるから」
「・・・じゃぁさ」
溶けてしまいそうなあたしの身体。
鳴り止まない警告音が響いてる。
「あたしが梨華ちゃんのこと好きだって言ったらどうする?」
「・・・え?」
ほら、警告音が大きくなった。
溶けてしまえ。
傷ついてしまう前に。
溶けて消えてしまえ。
震えているあたしなんて。
「なぁんてね。驚いた?」
「・・・もぉ、ひとみちゃんったら」
駆け出した。
ふざけたフリをして、駆け出した。
夜に溶けることの出来ないあたし。
ギリギリのラインを渡り続ける言葉のゲーム。
遊べないゲームに涙なんて必要なかった。
「ただいまぁ」
閉まった鍵を開け、冷たい空気が充満する室内へと足を踏み入れる。
真っ暗なリビングに明かりをつけて、テーブルの上にあった紙を拾った。
そこにはあたしがバイトに出た後帰ってきて、そしてまた出かけ行った母からの言葉が書かれている。
「今日も遅くなるから、か」
何度も書かれた言葉。
そしてあたしは何度も書いた言葉をその隣に書く。
『おつかれさま。ひとみ』
ペンを机に置いたら、乾いた音がしてペンが転がった。
あたしはそのペンを紙の横に置き、電気を消して自分の部屋へと上がって行った。
肩に担いでた鞄を床に投げ、いつもよりも疲れを感じている身体をベッドに投げ出した。
天井は高く、低く、あたしを押しつぶしているようだ。
梨華ちゃんがあたしのことを心配してくれているのは前から気付いてた。
今日みたに時間を見つけてはあたしの所に来てくれる。
そう、『来てくれる』
何かぐだぐだ。
上手いこと世界が回っていない。
と、いうよりもあたしが上手く立ち回れてない。
これの方が正解なのかも。
日に日に綺麗になっていく梨華ちゃん。
あたしの知らないところで大人になっていく。
置いていかれる。
そう思う。
そうしか思えてこない。
正義のヒーローぶっていたあたしは何処へ行く?
あんな心配そうな笑顔をさせて、あんなに泣きそうな笑顔をさせて、
あたしは本当に正義のヒーローなのか?
嘘でも冗談でもない『好き』の言葉。
多分、あんなに真面目な顔をして言ったのは初めてだろう。
いつも交わしていたのは笑いながら『好きだよぉ』何て交わしていた言葉だから。
時間が止まった。
風が止まった。
闇が襲った。
はぐらかす自分が大嫌いだ。
でも、あんなに驚いて、泣きそうな顔をされたら冗談にしか出来ないよ。
この状態を壊すことなんて出来ないよ。
壊したくない。
傷つきたくない。
弱い心が悲鳴をあげてた。
警告音を鳴らしてた。
それ以上行くな。
また独りになりたいのか。
石川梨華を失いたいのか。
闇はスピードを上げてあたしに被いかぶさってきた。
包まれた真っ暗な世界。
ああやって笑顔でごまかさないと、倒れてしまいそうだった。
・・・恐かった。
あたしのことを押しつぶそうとしているこの天井よりも恐かった。いつもよりも高ぶった感情のまま、あたしは目を閉じた。
こんな恐怖と、一緒にいることが出来なかったから。
・・・弱いあたしは自分が恐い。
◆
握った手が暖かくて、離したくない。
こんなドラマであるような気持ち、本当にあるんだ。
あたしよりも小さい梨華ちゃんの手。
その手を引いて、家の前の道路に座った。
寒い季節、アスファルトはぐっと冷えてて地面についたお尻が冷たい。
それでももっと暖かい手が気持ちがいい。
冷たさと暖かさを感じながら肩を寄せあって吐き出す白い息を見つめてみた。
「何かさ、ひとみちゃんのお家っていつも人の気配っていうのが無いよね」
「・・・うん。全然親とも顔合わせてないしさ、何か一緒に住んでるって感覚 そんなにないんだよね。
あ、でも、こういう生活にも慣れちゃったから、うん。 ・・・平気だよ・・・・そう、平気」
流れ出る言葉。
自然に流れそうになる涙。
素直になることが出来るのは、わかっているから。
ここじゃ誰もあたしを裏切らない
そう、わかっているから。
「ひとみちゃん・・・」
ぐいっと肩を抱かれて、あたしと梨華ちゃんの間を流れていた冷たい空気がいなくなる。
感じる暖かさ、梨華ちゃんの匂い。
「私の前で、無理なんかしないで」
『無理はしなくても、隠さなければいけない想いはどうすればいい?』
ここではそんなこと考えなくていい。
だって...
全て統べて、あたしのもの。
今は全てあたしのもの。
この言葉も、この温もりも、この香りも。
今は全てあたしだけのもの。
ギュッて梨華ちゃんにしがみついたら、梨華ちゃんは抱きしめてくれる。
包まれる優しさ。
包まれている安心感。
ほら、さっきよりも泣きたくなってる。
「・・・梨華ちゃん」
そう呟いたら、あたしのポケットで携帯が震えた。
ブーッブーッと激しく揺れた。
夢から覚めろという合図のように。
これ以上あたしをここにとどめないようにするかのように。
■
震える携帯をポケットから取り出した。
浅い眠りはすぐに覚める。
現実世界へ呼び戻す、小さな存在が少し、ほんの一瞬疎ましく思えた。
目を開けることがしんどくて、ディスプレイも見ずに携帯を耳にあてた。
「・・・もしもし」
『あ、もしもし?私、だけど・・・』
電話越しから聞こえてきたのは間違えるはずもない彼女の声。
今さっき別れたばかりの梨華ちゃんの声。
ベッドのスプリングが鳴り、あたしの身体は柔らかい布団から離れて
冷たい空気の中に治まった。
靴下越しに感じるフローロングの床は、あたしの脳味噌を覚醒させるには十分な刺激だ。
『ひょっとして寝てた?』
「あぁ、うん。でも大丈夫だよ」
『ごめんね、起こしちゃって』
やっぱり梨華ちゃんはよく謝る。
あたしに気を使いすぎてるんじゃないかって思うくらい。
「別に、気にしないで。で、どうしたの?」
『あ、うん、何かちょっと聞きたいことがあって・・・』
小さくなっていく声。
そんなに気まずさを感じることないのに。
梨華ちゃんは、何をそんなに遠慮しているんだろう。
あたしは気付かない。
それが自分の張っている壁のせいだって。
あたしは、気付いていない。
それは自分が作り上げた溝だっていうことを。
『・・・ひとみちゃんはさ、好きな人が出来たら素直に好きって言える?』
小さくなっていく声。
そんな時は大抵良い電話ではない。
あたしにとって、良い電話ではない。
「どうしたのさ突然。梨華ちゃんがそんなこと聞くなんて珍しいね」
すぐにつけれる仮面は重たく、内側が濡れている。
できるだけ上手に優しく声を出す。
隠す気持ちはお得意様だ。
笑おうと思えば笑えるから。
『うん、ちょっと聞いてみたくてさ』
言葉のゲームは見えない駆け引き。
踏み込みすぎないで、踏み込ませすぎないで。
「そうだなぁ、本当に好きだったら言うかもね」
本当は言えないくせに。
嘘つきの仮面にかかる罪の量は増えていくばかりだ。
もう、はがせなくなってしまいそうな程くっついてしまった仮面。
つく嘘が辛いのに。
「梨華ちゃん、好きな人でも出来たの?」
『いや、あの聞いてみたかっただけだから。うん、まだ自分の気持ち、わかんないし』
動揺してるのくらい分かるよ。
何年一緒にいると思ってるの?
隠さないでいいよ。
まぁ、あたしが一番悪い程に隠し事をしているけどね。
調子のいい思考や思いはいくらだって産まれてくる。
うわべだけの言葉に含まれる重みなんてないことを知っているくせに。
置いていかれるのが恐くて、必死にしがみついてる。
必死にしがみついてるくせに、強がってかっこいいフリをしようとしている。
・・・それが一番かっこ悪いことを知ってるくせに。
「そっか、うん。でも梨華ちゃんだったらきっと大丈夫だよ」
根拠がないワケじゃない。
でも、本当は応援なんてしてくない。
一番でいたい。
梨華ちゃんの一番でいたい。
でも、一番になれなかった時、失うのが一番恐い。
『何それ、大丈夫の意味がわかんないよ』
梨華ちゃんが笑う。
それだけであたしは嬉しくなる。
正義のヒーローは泣かせない。
石川梨華を泣かせない。
笑わせるのはあたしの役目だから。
「梨華ちゃんだから、大丈夫なんだよ」
そう、あたしじゃなくて、梨華ちゃんだから。その後、少し話して電話を切った。
あたしは携帯を投げ出すとそのまま布団の中へ潜り込んだ。
今日は疲れる1日だ。
◆
優しく背中を撫でてくれている梨華ちゃんの手が、ここへ戻ってきたことを教えてくれる。
傷つかない世界。
傷つく必要のない世界。
「落ち着いた?」
優しい声に、優しい笑顔。
向けられる視線の柔らかさが心地よい安堵感をくれる。
「ん?どうしたの?」
からみ合う視線を切らないように、そっと梨華ちゃんの頬に両手を当てて、
紡ごうとする言葉を唇で塞いだ。
「・・・ひとみちゃん」
驚いている表情を隠せない梨華ちゃんの頬を優しく包んだまま、
あたしはさっき梨華ちゃんに対して言った言葉を、想いを言葉で包んで声にした。
「・・・あたしは、あなたのことが好きです」
本当に好きだったら言えるんだ。
嘘じゃないよ。
ここだったら言えるんだ。
裏切られることがないから。
失う心配もないから。
梨華ちゃんみたいに強くないあたしは、ここでなら言えるんだ。
夢の中でなら掴める幸せ。
今まで、現実世界に戻った時のことを考えると恐くて言えなかった言葉。
でも、今日はそんな恐怖、捨ててしまおう。
せめて、ここの世界ではあたしを見て。
あたしだけを見て。
想いを込めて、もう一度唇を重ねた。
さっきの口付けとは違って、今度は背中に回された腕の優しさを感じた。梨華ちゃんの優しい腕の温もりを感じながら、あたしの頭の中には今さっきの
梨華ちゃんとの会話が溢れてくる。
『・・・ひとみちゃんはさ、好きな人が出来たら素直に好きって言える?』
『いや、あの聞いてみたかっただけだから。うん、まだ自分の気持ち、わかんないし』
偽りと分かっている世界。
感じる腕の温もりも統べて嘘だってわかってる。
この世界での言葉より、現実で言った梨華ちゃんの言葉の方があたしを縛って離さない。
抜けられない呪縛。
足につけられた重い鎖があたしの気持ちを荒していく。
「・・・どうしたの?」
あたしは、心配そうに声をかけてくれる梨華ちゃんのことを押し退けて家へと駆け込んだ。
わかってる。
偽りの幸せだって。
ここなら梨華ちゃんはあたしだけを見てくれてる。
そう、分かってる。
でも、浅はかな夢の終わりが見えてしまいそうで、現実の世界とのギャップのありすぎに
心が悲鳴をあげてしまいそうだ。
偽りの世界。
夢の世界。
手に入らないものは無いと信じていた世界。
その世界が崩壊していく。
現実のあたしが崩壊しそうだ。
震える身体を抱きしめながら、ベッドに倒れ込んで目を閉じた。
梨華ちゃん...梨華ちゃん..............梨華ちゃん。
もっともっと堕ちていけるように。
こんな邪魔なだけの思考を捨ててしまうように。
もっと、深い闇に堕ちていけるように。
◇
統べてが欲しい。
全てが知りたい。
その思いがベッドの上であたしの身体を熱くする。
色のない世界。
全てがセピアの世界。
その世界であたしは梨華ちゃんの身体を全て知る。
熱い吐息、乱れる髪。
絡み付いてくる指先を口に含んで、柔らかな身体を愛していく。
あたしを呼ぶ声、しがみつく場所を探して彷徨う手。
汗ばんだ背中を伝う汗が、梨華ちゃんの指先に絡まり、あたしの身体に絡まる。
熱い唇を重ねあい、熱い舌を絡めあう。
あたしの下で、胸を大きく上下させているその身体を、きつくきつく抱きしめて、
あたしは梨華ちゃんの中へと指を押し入れていった。
押し殺した声が部屋に響き、あたしの首元に埋められた梨華ちゃんの口からは
一番熱い息が吐き出された。
柔らかな肉壁の感触を知り、溢れ出る蜜の甘さを知った。
重ねられる言葉とは裏腹に、あたしの心は乾いていった。
こんな姿の梨華ちゃんを知ったヤツが、あたしの他にもいる。
そう考えるだけで気が狂いそうになった。
そんなヤツいらない。
梨華ちゃんを知るのはあたしだけでいい。
あたしを知るのは梨華ちゃんだけでいい。
あたしと梨華ちゃんだけでいい。
愛した。
あたし以外の誰も触れられないように。
流した。
心の中で、止まらない涙を。
梨華ちゃんが高い声を上げ、あたし達はベッドの奥へと倒れこんでいった。
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あたしの隣で梨華ちゃんは、幸せそうな顔をして眠っている。
相変わらずこの世界には色がなく、どんなに自分の手を見つめても、周りの世界を見渡しても
そこはセピア色でしかなかった。
あたしは梨華ちゃんを起こさないようにベッドを抜け出すと、下に投げ捨てられていた服に
手を伸ばした。
この部屋にある時計の針は、止まっていた。リビングに入ると、そこの時計も止まっていた。
いや、時計だけではなく、窓から覗いた世界も全てが止まっていた。
飛び立とうとしていた鳥。
道を走っていたであろう車。
買い物袋をぶら下げたおばさん。
全ての時間が止まっていた。
まるで一枚の絵画のような世界から目を離し、リビングにあるテーブルに目を移すと、
そこには見なれた字で、文字が書かれていた。
『もう、帰らないから』
震えた。
指が震えた。
身体が震えた。
だらしなく閉めたボタンの隙間から冷たい空気が流れ込んできたようだった。
「今さら何驚いてるのよ」
そしていつの間にか後ろにきていた梨華ちゃんに抱き締められて、首筋にキスをされた。
まだ熱の残る梨華ちゃんの唇。
まだ熱の残る梨華ちゃんの指先。
「・・・お母さんが・・・・もう、戻らないって」
開けたシャツの隙間から梨華ちゃんの指が入り込んできて、あたしの身体を優しく撫で回す。
壊してしまうように、あたしを、突き放すように。
「そんなの、知ってたはずでしょ?」
「・・・へ?」
シャツのボタンがゆっくりと外され、梨華ちゃんの指があたしの身体を行き来する。
行動と言葉があっていないような状態。
動く指と反比例するように梨華ちゃんの声は震えていた。
「・・・ひとみちゃんは知ってたはずだよ」
何を?
何を知ってたの?
「・・・知らないよ」
「嘘」
知らないもん。
知らないもん、こんな世界。
あたしは、こんな世界を知らない。
「あたしは・・・」
「何?」
「あたしは、こんな世界望んでない」
何で?
おかしいよ。
こんなの。
望んでないよ、あたし望んでない。
「嘘」
「嘘じゃない!!」
あたしは望んでない。
こんな世界。
こんな風な状態。
「ひとみちゃんは私だけを選んだんだよ?それのどこが嘘だっていうの?」
「・・・。」
「そしてひとみちゃんは私と結ばれることを望んだ」
あたしの身体から、音もなくシャツが床へと落ちていった。
背中に感じる梨華ちゃんの体温。
それは、ずっと前に感じた温もりとは全然違くて、ただ、冷たくて。
「私とひとみちゃんだけの世界。 それがひとみちゃんの望んだ世界」
目眩がした。
あたしの身体を撫でる梨華ちゃんの指が感じられなくなっていった。
「・・・そうだけど・・・・でも、違うよ」
「何が違うっていうの?望み通りじゃない。
今までも、これからも、ずっと前からひとみちゃんの望む通りに進んでいった世界じゃない。
この世界も、この時間も、この空間も、全部ひとみちゃんが望んだ世界」
首筋に唇を当てられ、身体を包まれた。
震えているのは、梨華ちゃんなのか、あたしなのか。
分からない程に震えているのは確かな身体。
「・・・イヤ・・・・・・・こんなの嫌!!」
梨華ちゃんを恐く感じた。
あたしの知ってる梨華ちゃんじゃないような気がした。
震える身体から逃れる為に、あたしはきつく目を閉じた。
この世界から逃れる為に、あたしはきつくきつく目を閉じた。
□
そこは、ただ真っ白な世界だった。
目を開くと、あたしは産まれたままの姿で膝を抱えて座っていた。
眩しいような真っ白な世界。
影も何も見えない明るい世界。
あたしは立ち上がって、足元や目の前の真っ白な世界へと手を伸ばしてみた。
壁すらあるのかわからない世界。
影がないから見えない壁。
「・・・何もない」
触れることの出来ない世界。
自分しかいない世界。
絶望感のようなモノがあたしを襲った。
寂しい?
それとも恐い?
寒さではない震え。
音がない。
自分のはく息の音がこんなに聞こえることなんて今までなかった。
ここはあたしが恐れる『独り』の世界。
見渡しても誰もいない。
触れようとしても壁すらない。
無限に広がるような世界を全体に感じ、あたしの身体は震えを増した。
唇が震えて、喉が乾く。
声にしないと気が狂ってしまうんじゃないかと思った。
恐い。
ここは恐い。
独りは恐い。
独りは・・・
「イヤー!!!!」
唯一床を感じられる足元を拳で思いきり叩いた。
何度も、何度も。
拳が潰れてしまいそうなくらい叩き続けた。
「出して!!!!ここから出して!!!!!!」
痛みを感じない拳。
寒さを感じない身体。
なのに寂しさや恐怖感は感じるこの心。
ここが何処かなんて分からない。
ここが夢の世界かどうかもわからない。
ただ、分かっているのは独りだってことだ。
「嫌だよ!!独りは嫌なんだよ!!!出してよ、ここから出してよ!!!!」
空間に溶けていくあたしの声は、何処か知らない所へ消えていき、
後にはあたしの乱れた息遣いだけがここに残った。
『呆然』
こんな言葉は今使うものなんだろう。
目を閉じても、もう夢に落ちることも出来ない。
身体全体を脱力感が襲い、あたしは膝を抱えていた腕をだらしなく床へ落とした。
それからどのくらいの時間が経ったんだろうか。
時計や太陽の光りもないあたしには『時間』というモノが全くわからない。
只呆然とするしか出来ないあたしの耳に、聞き慣れた声が聞こえてきた。
『あたしは、この世界を望んだ』
この声は、あたしの声だ。
『何もない世界。誰もいない世界』
大嫌いな自分の声。
嘘を言える大嫌いな自分の声。
「・・・望んだけど、望んだけど」
違うんだ。
こんなじゃないんだ。
『あなたが・・・あたしが望んだ通りの世界じゃない。
ここなら誰もあなたを傷つけない。
ここなら誰もあたしを傷つけない』
そうだけど・・・そうだけど。
『ね?あなたが望んだ世界でしょ?あたしが望んだ世界でしょ?
辛いことも、苦しいことも何もない。そうでしょ?』
あたしの声はあたしの中に入り込んでくる。
望んだ世界。
あたしが溺れることの出来る世界。
甘い媚薬が沢山埋まったこの世界じゃ傷つかないはずだった。
大嫌いな独りぼっちにならないはずだった。
なのに・・・
「辛いよ・・・苦しいよ・・・・寂しいよ」
矛盾した思考は矛盾を簡単に生む。
引きはがされた心がバラバラになって声をあげる。
『助けて』と。
「・・・・何もない。確かにあたしの望んだ世界だけど、 でもこんな苦しくなるはずなんかじゃなかった。
こんなに寂しくなるはずじゃなかった。 あたしはお母さんに会いたい、皆に会いたい。
・・・・梨華ちゃんに会いたいんだ」
独りぼっちが一番嫌。
何よりも嫌。
何よりも恐い。
『また、悩むとしても?』こんな風に辛くなるよりもそっちの方がいい。
『また、苦しむとしても?』こんな風に苦しむよりもそっちの方がいい。
『もう、2度とこの世界に来ることが出来なくなるとしても?』我がままで作り上げたこの世界、我がままを許してくれたあたし。
矛盾生み出した世界に、あたしは浸り、逃げ出した世界で霞む幸せを手に入れた。
ほんの、一瞬だけ。
いつまでも逃げて、いつまでも怯えて。
そしてあたしは独りになった。
大嫌いだった独りぼっちに。
何が何だか分からないこの世界で、あたしは独りぼっちになる。
それは、つまり誰ともずっと会えなくなるということ。
あたしは大嫌いなあたしにしか会えない。
ここでは、あたししかいない。
こんな所で、独りぼっちで生きていくことなんて嫌。
これが生きている状態だなんて言いたくない。
ここで生きるよりも、あたしは・・・あたしは元いた世界で独りになりたい。
ここにいる恐怖よりも、あたしは逃げないで与えられる恐怖の方がいい。
ずっと、ずっと被っていた仮面が、音もたてずに落ちていった。
逃げればまた同じことが待っている。
あたしはあたしに勝てない。
正義のヒーローは正義のヒーローと言えないくなる。
このまま生きていくなんて嫌。
このまま梨華ちゃんとの関係も全て消えていくなんてもっと嫌。
独りになるかもしれない。
でも、そこには絶対に他の人がいてくれる。
どんなに疲れていても、必ずメモを残していってくれるお母さん。
沢山謝るくせに、あたしの側に残ってくれている梨華ちゃん。
思い込みの『独り』
我がままで、弱虫で、いつも怯えて。
あたしは、あたしに生まれ変わりたい。
本当はもうこんなの嫌なんだ。
逃げて、逃げて、ただ逃げて。
一瞬の幸せしか握れないなんて。
逃げ込んだ世界で見つけた闇。
鳴り続けていた警告音の意味。
それがやっと分かった。
あたしはこえ以上逃げたら自分で自分を守れない。
崩壊しかしていかない。
再構築できないくらいに壊れていくことしか出来ない。
警告音が鳴り止んだ時、あたしはきっとあたしを破壊する。
世界に溺れ、窒息死してしまう。
狭い空間。
だけど今までずっとあたしを守っていてくれた空間。
もう、守ってもらうような年じゃないよね。
今よりももっともっと弱かった時。
あたしはここで守ってもらえた。
だから頑張れた。
そうじゃないかもしれないけど、今はそう思っている。
もう、夢を見るには大きくなりすぎたんだね。
ここからは自分自身がもっと頑張るところなんだね。
限界を迎えていた空間。
この狭い空間に治まるには、あたしは大きくなりすぎていた。
最後の最後。
きっとここがあたしの心の一番奥。
ここのあたしはきっと一番傷ついていたあたし。
ずっと封じ込めていたあたし。
・・・ごめんね。
ずっと、独りにさせて。
あたしは、あたしと一緒になりたい。
辛いかもしれないし、痛いかもしれないし、泣いてしまうかもしれないけど。
ここにいるあたしを独りぼっちにしちゃいけない。
今まで、ずっとあたしを守ってくれていたあたしを、ここに独り残しちゃいけない。
「一緒に、行こう?」
あたしは、あたしに少し怯えているようだった。
そうだよね、ここを出ればまた人がいるからね。
また傷つけられちゃうかもしれないからね。
でもね、大丈夫。
だってあたしにはあたしがいるから。
しばらくして、目の前の空間が少し動いた。
見えたのは影。
ここから外へ通じる影。
『この扉を出れば、前の夢に戻れるの。でも、そしたらもう二度と
ここに戻ってくることは出来ないよ。
もう、戻れないよ?
それでもいいの?それでもあたしはいいの?』
きっとあたしがここを出たら、奥の奥にしまい込んでたあたしが出てくるんだと思う。
痛みや、苦しみ、寂しさや辛さ。
そういうのを頑張って独りでしょって生きてきてくれたあたしが出てくるんだと思う。
「うん、大丈夫。だから、ありがとう。一緒に、行こう」
今までごめんね。
本当にごめんね。
独りぼっちにさせてて。
ずっと独りで辛い思いをさせてて。
今までありがとね。
本当にありがとね。
ずっとあたしの奥であたしを守ってくれていて。ゆっくりと立ち上がって、扉に向かった。
『・・・寂しかったよ』
あたしはそう言って、あたしの中へと戻ってきた。
ずっと、ずっと我慢していた涙が目の奥へとたまっていくのに気付いた。
扉はゆっくりと開き、あたしのことを、光りが包んだ。
◇
リビングで首に唇の柔らかさを感じ、背中に梨華ちゃんを感じている。
目を開いたら、そこはセピアの世界だった。
ここにもいてくれたあたし。
時間を止めて、独りになることを恐れていたあたしが傷つかないように
守ってくれていた。
望んだ世界を作りあげ、砦になって、守ってくれてた。
あたしの前で組まれている梨華ちゃんの手を、そっと握って身体を離した。
もう、大丈夫だから。
甘い夢を見させてくれてありがとう。
「ひとみちゃんがこうなりたいと思ったんでしょ?
ひとみちゃんが私と二人っきりの世界を望んだんでしょ?」
そうだよ。
だって独りは嫌だったから。
大好きな梨華ちゃんと一緒にいたかったから。
幼いあたしと、今のあたしの望みの夢。
独りぼっちじゃ抱えきれなかった思いや気持ちを、ここは受け止めていてくれた。
あたしは受け止めていてくれた。
「・・・そうだよ。でも、もう大丈夫。大丈夫なの」
梨華ちゃんの方へ振り返って、正面から優しく抱きしめた。
抱きしめられるのと違った感覚。
ここの梨華ちゃん、ありがとう。
ここのあたし、ありがとう。
一瞬でも幸せのカタチをつくってくれてありがとう。
でも、もう一瞬の幸せに甘えないよ。
だって、あたしは今のあたしだから。
独りじゃない。
あたしとあたしは一緒にいる。
「もう、行くね」
ここでの体温は忘れない。
ここでの優しさは忘れない。
あたしは、ここでずっと夢をみていたあたしを忘れない。
幸せを感じ、孤独を分けられ、それでも拭いきれない喪失感を感じたままでいたあたしを忘れないよ。
だから、ほら、一緒に行こう。
一緒に来て。
崩れてしまったパズルを組み合わせるように、あたしは心の中でさっきとは違う影と出会う。
これがあたし。
これもあたし。
「もう、戻れないよ」
優しさ、それ以外のこと、教えてくれたのはここの梨華ちゃん。
一瞬の幸せで拭ってくれた悲しみや、苦しみ。
そして寂しさ。
意味がないモノなんてない。
全て、こんなにも弱かったあたしを守ってくれていたあたし。
そんな、少しでも強いあたしとあたしは一緒になる。
だから
「・・・大丈夫、きっと、大丈夫だよ」
閉じられた扉と繋がっていたあたしというあたし。
強くなる為にはキッカケが必要だった。
認める必要もあった。
あたし自身が見つめなきゃいけないあたしがいた。
ばらばらに散らばっていたあたし。
夢を見ることで支えてくれて、夢を見ることで寂しさや弱い心を覆い隠してくれていた。
きっと、あたしが成長するまでそうやって支えてくれてたんだと思う。
一つ認めてしまえば認めていけるモノがあって、
一番弱いと思う自分を見れば少しずつ変わっていくものがあった。
独りで膝を抱えて、独りになっていたのがあたし。
壁を作って怯えて過ごして。
どうしようもないくらいに孤独な嫌いなくせに孤独を作っていた。
それでも、こうやって周りにいてくれる人はいた。
ずっと、いた。
だから、大丈夫。
きっと、大丈夫。
現れた扉に手をかけて、一歩足を踏み出した。
『ありがとう。そしてごめんね』
光りがあたしを被って、心にあたしが入ってきた。
足元から消えていく世界は、ただ真っ白で、感じる光は暖かかった。
きっと、世界は眩しいんだと思った。
◆
目を開いたら、あたしはベッドの上にいた。
天井の木目が霞んで見えて、自分が泣き出す一歩手前にいたことに気付く。
まだ、あたしは泣いちゃいけない。
そんな意識があったあら、あたしは涙が流れそうな目元をぐしぐし服で拭いて、
ベッドから立ち上がった。
窓を空けたら冷たい風が入り込んできて、その冷たい風の中、梨華ちゃんが家の前に座り込んでいた。
あたしは部屋の窓を閉め、さっきまで眠っていたベッドに目を向けてその部屋を後にした。
あたしが玄関の扉を空けた音に気付いているはずなのに、梨華ちゃんはこっちを振り向かなかった。
多分、振り向く必要もないから。
多分、振り向けないから。
「もう、言われなくてもわかってるよね?」
震える声の理由はあたしにはわからない。
あたし自身の心の震えなのか、それともあたしの中の梨華ちゃんの声の震えなのか。
「うん。この夢の世界を出れば二度とここに来ることが出来ないってことでしょ?」
この夢の中であたしは梨華ちゃんへ想いをつげ、ここの梨華ちゃんの唇に触れた。
甘い香りを知り、映ることのない瞳に自分を映した。
「...もう、逃げることが出来ないってことだよ?」
その一時の幸せを今からあたしは失う。
梨華ちゃんの言葉に混じる震えはそんなあたしの心を写したモノなんだろう。
...でも
「あたしは、もう逃げない」
ずっと独りぼっちだったあたしを集め、あたしはあたし達と一緒にいる。
あたしはあたしを守り続けてきてくれたこの世界と一緒に新しい自分になる。
たとえその先にまた色々な影がうごめいていたって、あたしはあたしとなら乗り越えてみせる。
「ずっと、ずっとずっとずっと、あたしを守ってくれてありがとう」
今度はあたしが守ってみせる。
本当に、ずっと、永遠に。
「別にひとみちゃんの為じゃないよ。私は、私を守りたかったの」
梨華ちゃんの口から流れる言葉はあたしのモノ。
そう思う。
だってここはあたしの見た夢の世界。
代弁する梨華ちゃんがそんな泣きそうな顔しないで。
泣かないで。
夢の世界でも梨華ちゃんの泣き顔なんてみたくないんだ。
「でも、ありがとうね」
ギュッて抱きしめた。
梨華ちゃんの身体をきつく抱きしめた。
泣かないで。
笑っていて。
沢山の気持ちを込めて抱きしめた。
「...そろそろ、行く?」
「...そうだね」
最後にもう一度、唇を重ねた。
この世界とのお別れ。
そしてここの梨華ちゃんとのお別れに。
「あのさ、最後にもう一度だけ、聞くね」
「うん」
「もうこの世界には戻ってこれない。次に見る夢は本当の夢だけど...」
「うん」
そう、本当の夢。
夢のみる夢じゃなくて、きっとあたしが昔みていたような本当の眠りの中でみる夢。
でも、全然平気だよ。
だってあたしにはこんなにもずっと独りで頑張ってきたあたしがいる。
あたしにはこんなにも辛い思いを引き受けてくれていたあたしがいる。
ここで、色々なことを見せてくれたあたしや、梨華ちゃんがいる。
だから
「「あたしはもう...逃げない」」
■
窓の外はもう暗くなっていた。
部屋の温度はぐっと下がっていて、布団から出ると全身に鳥肌がたった。
それでも、あたしの身体はその鳥肌よりも内から溢れてくる暖かい心で満たされていた。
勢いがある時に行かないと、きっとあたしはまた折れそうになる。
だから立ち上がって携帯を手に掴んだ。
そして走り出した。
こんな気持ちになるのはいつぶりだろう。
心の奥底から顔を上げて走りたいと思って、心の奥底から会いたい人がいた。
きっと会うのは数年ぶり。
本当に会えるのは数年ぶり。
駆け出した足をもつれさせながらひたすら走った。
息が切れて、冷たい空気が肺に入ってむせてしまっても走り続けた。
早く会いたい。
すぐに会いたい。
溢れてくるこの思いも気持ちも全部あたしのモノ。
ずっと独りぼっちだったあたしもずっと夢を見続けたあたしもあたし全てが
梨華ちゃんに会いたがっていた。
走りながら電話をかけた。
今が何時で、今梨華ちゃんが何をしてるかなんて分からないけど、声が聞きたくて
話しがしたくて、会いたかった。
「あ、もしもし?」
『ひとみちゃん?』
「うん、ごめんね夜に電話なんてしちゃって」
『いいよ、気にしないで。どうしたの?何かあった?』
いつもあたしが言っている言葉をくれたのは梨華ちゃん。
そういえばあたしから電話をするなんて久しぶりだもんね。
何かちょっと新鮮かも。
「あのさ、今から梨華ちゃんちょっと会えない?」
切れる息を落ち着かせながらあたしは一生懸命、だけどすごく自然に言葉を紡げた。
きっとあたし自身の言葉だから溢れてくるんだね。
素直に。
すごく、素直に。
『今から?』
「うん、今から」
『えぇっと大丈夫なんだけど・・・まだ・・・の・・・・が』
「ん?何言ってるのさ?」
小声でぼそぼそ話す梨華ちゃんの声が電話じゃちょっと聞こえなかったけど、
それでも今のあたしはそんな梨華ちゃんの話し方ですら懐かしく感じてしまう。
それが嬉しくて笑ったら、電話越しで梨華ちゃんがおどおどしながらも笑っていた。
『えぇっと、何処で待ち合わせる?』
「もうすぐ梨華ちゃんの家の前に着くから下りてきて」
『へ?』
驚く梨華ちゃんの声を聞きながらあたしは電話を切ってまた走りだした。
心が踊ってしょうがない。
恐いはずなのに、なのに今は梨華ちゃんに会えることが嬉しくてしょうがないんだ。
子供の時のような気持ち。
止められない無邪気な子供のような気持ち。
きっと、これは独りぼっちでずっと過ごしていたあたしと、今の梨華ちゃんのことを知っている あたしが一緒にいるから。
気付かなかった。
自分のはった壁のせいで。
梨華ちゃんはたとえあたしが『好き』という気持ちを言葉にしても、あたしから離れていったりなんかしない。
気付いてたはずなのに。
恐怖がまさっていて見えなかった。
「梨華ちゃん」
走って走って辿り着いた先には梨華ちゃんがいて、その視線の先にはあたしがいた。
こんな風に走って、こんな表情をしているあたしを梨華ちゃんはきっと驚いたように見ているだろう。
遠慮なんて言葉を外して、ただ、ぎゅって抱きしめたくて。
「...どうしたの?何かあった?」
「梨華ちゃん」
夢じゃないかって思うくらい。
そのくらい現実感がない梨華ちゃんが目の前にいた。
「ひとみちゃん、何か小学生の頃みたいだね」
そう言って笑うと、梨華ちゃんがあたしのことを抱きしめてくれた。
抱きしめたくてうずうずしていたあたしの腕ごと梨華ちゃんはあたしを抱きしめてくれた。
あぁ、そうだ。
昔のあたしも梨華ちゃんを抱きしめたかったくせ、それが何か恥ずかしくて出来なくて、
目の前でうずうずしているあたしを抱きしめてくれたんだった。
独りぼっちだったあたしが喜んでいた。
懐かしい香に、懐かしい柔らかみに。
そして段々と落ち着いていくあたしの心。
心臓の音がトクン、トクンって聞こえてきて、懐かしい気分になる。
あたしの心が落ち着くと、次に出てきたのは照れと、そしてちょっとした怯えだった。
でも、心の奥であたしはあたしを頑張れって言っている。
聞こえるんじゃなくて、感じる。
そんなあたしの鼓動が胸一杯に広がっていった。
「あ、あのさ」
梨華ちゃんの胸から顔を上げて、一歩下がって梨華ちゃんを見つめた。
暗闇の中、梨華ちゃんはただ黙ってあたしを見つめていた。
「えぇっと、あのさ...」
頑張れ。
ここで何も言わなかったら今までと同じだよ。
「まず...ごめん。色々と、ごめんなさい」
「それは、こっちも同じだから」
「いや、梨華ちゃんは何も悪くないよ」
だからさ、泣きそうな顔は止めてね。
お願いだから。
ほら、あたしはさ、昔から言ってたじゃん。
梨華ちゃんを守るって。
笑顔にするのはあたしの役目だって。
やっと、やっと叶えられそうなんだから。
「えぇっとね、話したらすごく長くなるから、まず、言わせて」
そうだ、頑張れ。
あたし頑張れ。
喉の奥で言葉を噛み砕くことなくまず一言言おう。
それが、スタート。
「えぇっとさ、あのね....」
俯くな。
下を向いてばっかじゃだめなんだ。
恐くないはずない。
けど、変わらなきゃ。
あたし、変われない。
さっきのように、昔のように、あたしは胸を張って生きていきたい。
言葉に中々出来ない想いが悔しくて、ギュッて拳を握ったら、すごく優しい声がした。
「もう、逃げないんでしょ?」
梨華ちゃんの声がした。
時間が、一瞬止まったのかと思った。
驚いて顔を上げたら、梨華ちゃんが泣きそうな笑顔をしていた。
「私も、もう逃げないから」
さっきとは違うように身体に腕が回された。
今はあたしの胸に梨華ちゃんを感じていて、小さく震えている梨華ちゃんを、すごく近くに感じた。
沢山頭の中で回る疑問を頭の隅に追いやって、あたしは握りしめていた拳を解いて
恐る恐る梨華ちゃんの背中に手を回した。
あたしが知ってた頃よりも伸びた背。
いつのまにか変わった身体つき。
なのに、酷く懐かしかった。
腕に力を入れて、抱きしめた。
梨華ちゃんがここにいる。
そう、思うことが出来た。
安心感を覚えた。
失うことのない安心感を、この時覚えた。
感じられた。
「...好きなんだ」
だから心で噛み砕かれなかった言葉が産まれた。
小さな声と、涙と一緒に。
「梨華ちゃんが、好きなんだ。ずっと...ずっと」
受け止めてなんて言わないから。
ただ、聞いて欲しい。
これが、あたしが生まれ変わる為の魔法の言葉。
生まれ変わりたいあたしの言葉。
そして、素直なあたしの気持ち。
「答えなくてもいいから。聞いてくれたら、それでいいから」
梨華ちゃんの肩が震えていた。
あたしの腕の中で涙を流している梨華ちゃんが震えていた。
「...ずるいよ。ずる、いよ...ひとみちゃん」
嗚咽をもらしながら必死で喋る梨華ちゃんがこんな時なのに愛おしくてしょうがない。
いつの間にか消えていた失うことへの恐怖心。
流れる涙には色々なモノがつまりすぎててあたしは止める気すら起きない。
もちろん、あたしの涙だけだよ。
どんなことがあっても...
「梨華ちゃんに泣かれるのだけは、あたし弱いんだ」
泣いてる梨華ちゃんの頬を両手で挟んで笑ってみせた。
だからさ、ほら、笑って。
笑顔が一番好きなんだから。
「...あたしが、今度は、あたしから、言いたかったのに」
あたしの両手を梨華ちゃんの涙が濡らしていく。
子供みたく顔をくしゃくしゃにして、一生懸命言葉にして、梨華ちゃんは涙を止めようとしていた。
梨華ちゃん言った言葉。
『・・・ひとみちゃんはさ、好きな人が出来たら素直に好きって言える?』
この質問は、梨華ちゃんの勇気。
今、やっと分かった。
素直に言えるよ。
もう、嘘はないから。
夢の中じゃなくても言えるから。
「ひとみちゃん」
「...ん?」
「おかえりなさい」
涙でぐしょぐしょになった顔で梨華ちゃんが一生懸命笑った。
ダメじゃん、また泣きたくなるじゃん。
あたし泣いたら梨華ちゃん泣いちゃうじゃん。
「ずっと、ずっと、言いたかったの。ずっとずっと、言ってほしかったの」
だから『私にもおかえり』って言って。
また、涙が溢れてきた。
止められないよ。
止めれるはずないよ。
繋がった点と点。
繋がっていた線と線。
パズルのピースは全部当てはまって、やっとカタチを整えた。
涙は止まらなかったけど、あたしは頑張って笑顔をつくった。
だって、言いたいじゃん。
笑顔で、梨華ちゃんがしてくれたみたいに。
「...おかえり、おかえり、梨華ちゃん」
抱きしめてもいい?
今、ここでギュッてもう一度抱きしめてもいい?
そして笑おう。
ね、梨華ちゃん。
頬に伝わる涙を指で拭って、親指で柔らかい頬を撫でた。
そして梨華ちゃんの口から小さく零れた、夢のような言葉。
『...私も、ずっと好きだったの』
えぐえぐ泣いて、びちゃちゃ泣いて、梨華ちゃんは一生懸命言ってくれた。
あたしが中学生だった頃から、あの日、ずぶ濡れになった梨華ちゃんを抱きしめた頃から、
気になってて、でも幼馴染みだったから、言えなくてって。
あたしと同じ気持ちを抱えていて、あたしと同じ悩みを抱えていた梨華ちゃん。
でも、その頃からあたしは自分の感情を抑えるのが得意だったし、真直ぐ梨華ちゃんの方を見る
ことが出来なくなっていたから、全然気付くことが出来なかった。
あたしが夢を見始めた頃から、梨華ちゃんはずっと一緒にいれくれた。
真直ぐに見れなかったお互いの顔。
真直ぐに向けれなかったお互いの心。
やっと、やっと辿り着いた。
溢れる涙を指で何度もすくって、あたし達は見つめあって、それから笑いあった。
そしてお互いに目を閉じた。
********************************************
繋がっていた線と線。
見ていた夢の中に、確かに梨華ちゃんはいてくれた。
ずっと、ずっと前から一緒に。
夢だと思っていた夢の梨華ちゃんは、夢だけど夢じゃなかった。
あたしの作り上げた世界は、梨華ちゃんをも巻き込んでいた世界だった。
震えていた声は、あたしじゃなくて、梨華ちゃんの声。
わざと突き放すような行動をとってくれたのは梨華ちゃんの優しさ。
世界の崩壊に気付いた梨華ちゃんの優しさ。
そして、梨華ちゃん自身の世界から抜け出す勇気だった。
ずっと、一緒にいてくれたから気付いてくれた。
あたしの気付かなかった心の崩壊に。
あたしの気づけなかった、梨華ちゃんの心の崩壊に。
夢の中で素直になれていたあたしは、夢の中で素直な梨華ちゃんと出会っていた。
でも、そこは夢の世界。
いつかは覚めなくてはいけない夢の世界。
臆病だった、あたし達。
そして産まれた新しい世界。
夢の住人になって、あたし達は時を過ごしていた。
すれ違って、目を背けあって、失うことだけを恐れて。
お互いが、お互いを想って、素直に手を繋いで、素直に抱きしめあえいたのは心が素直だったから。
失う恐怖もしらないで、作った壁もなかったから。
夢の中で驚いた顔をしていた梨華ちゃん。
だって、それは本当に驚いていたから。
夢の中で目を閉じてくれた梨華ちゃん。
それは、あたしの気持ちと同じだったから。
感じた肌も、感じた熱も、全部、梨華ちゃんだった。
全部、知ってたんだね。
あたしのこと。
全部、一緒に見ててくれたんだね。
お互い素直になれなかった。
夢では出来たことなのに。
あたし達は夢を見て、夢で踊って、ここに立った。
ただ素直に、ただただ、素直に。遠回りを沢山して、夢の世界じゃあんなに近くにいた。
おかしな奇妙なはじまり方。
夢の世界で出した初めての勇気は、今、ここでの勇気に変わっている。
笑った時間も、感じあっていた時間も、全部、全部自分達のモノになっている。
感じた心。
感じる気持ち。
嘘なんて何処にもなくて、嘘なんて探す必要もなかった。
今まで、ずっと気付けなかったけどさ、繋がってたんだね。
あたし達。
夢は、繋がってたんだね。
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チカチカと光る街灯。
その下をゆっくりと歩く二つの影。
影の一つは少し大きく、影の一つはもう一つの影よりも少し小さい。
二つの影は顔を見合わせると、そっと手を繋ぎあった。
その手は暖かくて、2人はそのまま道を歩き続けた。
ずっと、ずっと。