何だろう、この感じ。
隣にいる人の温かさっていうか、なんていうか。
一歩玄関に足を踏み入れた時に感じるこの感じは何だろう。
「ただいま」
そう言って君は玄関で立ち止まった。
靴を履いたままでいつものように僕を見上げて。
「おかえりなさい」
ほんの少しだけ早く家の中に入っていた僕は、彼女よりもニ歩分くらい先の所で立ち止まる。
君はちょっとだけペコッて頭を下げてから靴を脱いだ。
石川梨華が吉澤梨華に変わったその日。
蒼空には白い雲が浮かんでた。
春の日で、暖かくて、それでいて…青い日だった。
すっかり住み慣れた部屋に帰ってきて、上着をパーカーに変えてから袖まくりをする。
「夕飯何食べたいですか?」
「え、私作るよ。吉澤くん座ってなって」
何かが変わったって、何かを変えたいっていうのは僕らの希望じゃなくて、
変に気取らないでいつも通りっていうのが僕らの考えただった。
「いいですよ。疲れたでしょ?」
「別に疲れるようなことしてないもん。ねぇ、私が御飯作るからお風呂とかやってよ」
だけどね、ちょっとした問題が僕の方にはあったりする。
「じゃぁ、洗濯物も入れちゃいますね」
「うん、お願い」
今の今までずっと『石川さん』って呼んでたから、どうやって君のこと呼ぼうかなぁなんて問題。
そう、きっと彼女が聞いたら思わず吹き出しちゃうようなそんな問題。
聞こえてくる鼻歌とかを聞きながら、僕は真剣に考えちゃったりしてる。
洗濯物を畳んでる時も、お風呂を洗っている時も。
たまにチラッと楽しそうに料理をしてる君の顔を覗き見しながらね。
思わず笑みが零れちゃうっていうのはこんな感じなのかな。
自然と頬の筋肉がゆるゆるしてくる。
呼び方を考えたり、呼ぼうと思って喉まで声を出そうとしてる時、多分僕も石川さんと同じくらいに
楽しそうな顔してるんだろうなって思う。
多分、間違いない。
「出来たよー」
「はーい、今行きまーす」
そんな広くない部屋で、ちょっと大きめな声を出してから、さっきまくりあげた袖を元に戻した。
***
湯煙が視界を少し悪くしている。
顔をお湯で濡らしたら、入浴剤のいい香が私の肩の力を抜かせてくれた。
「…ふぅ」
私も吉澤になったのにいつまでも吉澤くんって呼んでるのもちょっとおかしいよね。
ひとみちゃんっていうのも、何かちょっと照れくさいし…
「やっぱりよっちゃんかなー」
ずっと考えてた呼び方を、お風呂の中で伸びをしたりしながら何度かくり返し言ってみた。
何か、段々変な感じになってきた。
同じ言葉を何度もくり返し言ってたらおかえいく感じるのと同じ感じだ。
「吉澤くん…でもまだいっか」
1人でこっそり笑いながら、私はお風呂のお湯の中に頭までもぐった。
「出たよー」
「ん、もうちょっとで行きます」
お風呂から出てリビングに戻ると、吉澤くんは真剣な顔をしてカタカタとキーボードを叩いていた。
時たま何かを考えるように指を止めてぐるりと頭を回す。
それからまた指を動かして大きく息を吐く。
何度か同じような動作をくり返してから吉澤くんはパソコンの電源を落とした。
「続きはまた明日」
パソコンを閉じて眼鏡を外し、吉澤くんは私の頭に手を置いてからお風呂に向かった。
カタッと音を鳴らしながら置かれた眼鏡に触れると、私の胸はちょっと鼓動を速める。
フレームに触れた指先が、熱くなったような感覚に陥った。
…髪の毛、乾かそうっと。
チクタクちくたく聞こえてくる時の針の音。
吉澤くんには珍しい長風呂。
ソファーに体育座りをして飲んでいたホットミルクも残り半分くらいの量になっちゃった。
「もう、先寝ちゃうぞ」
そうやってちょっと呟いたら、すごいタイミングが良い感じで携帯が震えた。
あ、吉澤くんのも震えてる。
開いてみれば、届いたメールはどれもこれも祝福メール。
ついでに…あの、応援メール。
ハハッ、皆本当凄い。
メールの内容に、思わず笑いを零しながら私は肩にタオルケットを引っ張りあげてメールを返した。
それからどれくらいしてか、吉澤くんが髪をガシガシとタオルで拭きながらお風呂から出てきた。
「携帯、激しく震えてたよ?」
「あー予想つくかも」
そう言ってテーブルの上にあった携帯に手を伸ばし、吉澤くんは手早くメールを返しはじめた。
少し間を置いては鳴る携帯。
私の方はもういいけれど、どうやら吉澤くんの方はまだまだ続くみたいな感じ。
すっかり冷めてしまったミルクを飲み終え、カップを流しに持って行こうと立ち上がると、
吉澤くんがちょっと長めに息を吐いて携帯を閉じた。
「ごめんね、冷えちゃったでしょ?」
「大丈夫。あったかいのも飲んでたし、ほら、タオルケットもかけて───」
言いながら肩にかけてたタオルケットを持ち上げようとすると、突然タオルケットごと抱きしめられた。
吉澤くんの手に持っていた携帯が音をたてずにソファーに落ち、私を入浴剤の香が包んだ。
「…メール、いいの?」
「電源切っちゃった」
耳元で笑い声が聞こえて、それから、小さく囁かれた。
私の胸は、また鼓動を速めた。
「ねぇ、電気…消そ?」
「…ダメ」
「お願い、恥ずかし…ン」
いつもより強引な唇が私の言葉を塞ぐ。
言葉でここに誘われたことっていうのは、実は今までなかったりする。
どんなに年月が経っても吉澤くんは照れ屋さんで、いつもベッドの中で言葉を交わすことなく
二人で静かで熱い世界に潜っていっていたから。
お布団の中に大きなお布団がいて、そのお布団が私を優しくくるんでいくの。
そう、いつもは。
そう、今までは。
いつもより強引なのに、なのに凄く優しくて、私は息をするのすら忘れてしまいそうになる。
何かを喋ろうとする度に、言葉は全部吉澤くんの中に吸い込まれていっちゃう。
うっすら目をあけると、長い睫が私のすぐ近くにあった。
「…ン、ねぇ…」
流されそうになるのをグッとこらえて、少しだけ強めに吉澤くんの胸を押した。
名残惜しそうに私の下唇から吉澤くんの唇が離れ、それから閉じられていた瞼がそっと開かれる。
いつもは優しく笑っている目が少し違って、なんて言うか…すごい綺麗で、私の胸はさらに高鳴っていく。
「イヤ?」
「イヤじゃないけど…あの…」
少しかすれた声が唇の数センチ先から降ってくる。
長い指が私の額にかかった髪をすくいあげ、真剣な眼差しの中に私を映す。
バラバラのようでバラバラじゃないキーワード達は、パズルのように手を繋ぎあいカタチを作っていく。
「…お布団の中、入ろうよ」
流されそう。
後ちょっとで。
多分、流されてもそこは優しい世界だっていうのは本能的に感じ取ってる。
流されたいっていうのもあるけど、そこに立ちはだかる羞恥心という壁。
ずっと、壊せないでいる壁。
「…イ」
「え?」
壊されることを望んでいる自分もいるのに、口に出せなくて、いつも、言えないの。
私からじゃ壊せないの。
だけどね───
「全部、見たいんだ」
言葉で壁はすぐに壊れるの。
そう、あなたの言葉で。
ずっと、待ってたの。
壊してくるれるのを。
何度も手の甲や指先が頬や瞼や唇に触れてくる。
自分でも力が抜けていくのが分かった。
そして、自分が待っているのも。
「…梨華」
特別な呼び方なんていらない。
私だけにくれる名前もいらない。
ただ、呼んでくれればいい。
私の名前を呼んでくれればそれでいい。
『うん』って言葉にするのが恥ずかしくて、私は黙って頷いた。
額と額がぶつかって、吉澤くんの鼻を私の鼻がぶつかった。
目を閉じているからお互いに表情は分からないのに、どうしてこんなに見えるんだろう。
何度か軽くそっと唇が降ってきて、私のボタンは外されていく。
背中に回った吉澤くんの左手が、私の身体を少し浮かせて身にまとっていたモノを脱がせていく。
数を数えるような手順なのに、今日はどうしてこんなに息が詰まるんだろう。
持ち上げれた腰から降りていく寝間着の感触だけで、どうしてこんなに苦しくなるんだろう。
吉澤くんの左手に導かれるように触れたボタン。
その一つ一つを外していくっていうことが、いつも以上に難しく思えた。
さっきみたいに手の甲と指先が私の身体を走っていく。
くすぐったくて、だけど気持ちよくて、だけど焦れったくて、走る指を捕まえて口の中にくわえこんだ。
ちょっとふざけて軽く指を噛んだりすると、吉澤くんの顔がみるみる赤く染まっていく。
顔にかかった前髪が、吉澤くんの表情をかくした。
前髪、ちょっと伸びてきたね。
今度切ってあげるからね。
さっきまで含んでいた指先に軽くキスをして、吉澤くんの頭を両手で胸に抱き寄せる。
ねぇ、聞こえる?すごいでしょ?
私さ、はじめてなんかじゃないのに、何故か―――
「すごく、ドキドキするの…」
好きで好きで、言葉に出来ないくらい好きなの。
泣きたくなるくらい、好きなの。
どうしよう、ねぇ、どうしよう。
「心臓が壊れちゃいそう」
強く抱きしめて欲しい。もっと、もっと欲しい。
何度求めても尽きる事なく欲しがるこの気持ち。
扉が一つ開く度にまた新しい扉が生まれ、行き止まりとか、終点とかが見えないの。
抱きしめていた腕の力を緩めると、両頬を親指で触れられた。
零れる寸前で溜まっていた涙が流れだし、どんどん流れていく。
違うの、泣きたいんじゃないの。
嬉しいの、すごい。
イヤとかそういうのじゃないの。
伝えたいけど、今言葉を発したら声をあげて泣いちゃいそうで、何も言えずに目を閉じて
涙を止めようとしていたら、グッと抱き寄せられて優しく髪や背中を撫でられた。
「…好きだよ」
あーもーバカ!そんなこと言われたら余計泣けてきちゃうじゃない。
それにそれは私の台詞なの!先に言っちゃダメでしょ!!
「…バカ」
ほらーもー涙止まらなくなっちゃったじゃん。
どうしてくれるのよ。
もーバカ、バカばかバカ!
だけど、だけどさ───
「すごい、好き」
数えられないくらい降ってくる唇。
もっと奥まで溶け合いたいってくらいにからみ合う舌。
汗ばんでいく身体は正直もので、出てくる声も正直もの。
抱き寄せられた腰と腰がぶつかる度に、私は揺れて、汗も流れて声も零れる。
髪を額にくっつけながら,私を突き上げる吉澤くんがさらに激しく腰を振る。
奥の奥の方にある私のツボを知っているかのように。
何度も遠くにいってしまいそうになる衝動をグッと堪えようとするけど、そんなの上手くいくはずもない。
それに、私は高く飛ぶことを望んでしまってたりする。
…ねぇ、もう、ン…アッ
あとちょっと、もう少しで理性を手放しそうになると吉澤くんは動きをゆっくりとする。
ダメ、私…おかしくなっちゃいそう。
ギリギリまで抜かれて、それから激しく突き上げられる。
後ほんの少しで辿り着く先が遠くて、早く辿り着きたいのに辿りつけない。
焦らされて、動きを止められて、胸や唇に降ってくる唇や舌。
自分から腰が動かそうとするとそれを止めらる。
何処に行こうとしても、私を止めて、悪戯な唇が私の全身を滑っていく。
違うの…私が欲しいのはそこじゃないの。
ン、ンフッ、ハッ…
目尻にたまった涙が頬流れて耳に辿りつく。
何も考えられなくなりそうになる頭で手で、頭の下にあった枕のカバーを強く掴む。
どうして動いてくれないの?
どうして動かさせてくれないの?
もう、本当おかしくなっちゃうよ。
「…お願い」
荒くなった息で必死に言葉を絞り出しすと、私が知らないくらいにいじわるな吉澤くんが、
私の身体の上で少しだけ腰を動かしてはすぐに動きを止める。
体中が熱かった。
身体の芯が疼いてそれを止められなかった。
恥ずかしい、だけど、もう限界。
「****」
私は今まで言ったことのない言葉をはじめて使った。
辿り着いたのは、一緒の時だった。
***
荒い息が落ち着き、沢山『バカ』って言われた後、梨華…ちゃんは左手を天井に向けて伸ばした。
明るい光を遮るように手をかざし、指を開いたり閉じたりしながら光りで遊び、それからその手を
勢い良く僕の顔の上に下ろしてきた。
笑い声が一つになって、声が重なり声が増える。
布団の中に逃げ込む身体を捕まえて、わざときつく抱き締めると、梨華ちゃんは『ギブギブ』って言って
僕の腕をペシペシ叩いた。
「…ごめんね、誕生日とかそういう日じゃなくて」
「全然気にしてないよ。ほら、それに新しい記念日が増えるんだからいいじゃない」
少し緩めた腕の中で、背中を向けた彼女は左手をすっと伸ばした。
僕はその腕に自分の腕を重ねるようにして腕を伸ばし、近付いてきた手に手を重ね、指を絡ませて
もう一度強く梨華ちゃんの身体を抱きしめた。
ありがとうの一言を言うことも、おやすみの一言を言うことも、照れくさくて、寂しかった時があった。
今でも君が目を閉じて眠りに落ちていくその瞬間を見ていると、時たま感じることがある。
だけど、今はこんなにも幸せなんだ。
寂しさよりも感じる幸せがこんなにも多く溢れてるんだ。
沢山の言葉を言おうとすると、やっぱりいつもみたく失敗しちゃうと思うから、
今はきつく抱きしめるだけにしておくね。
それから、これからもずっと…よろしくね。
どんな春よりも暖かな君を抱きしめながら、僕は心地よい眠りに落ちていった。